1 聖天に出会う。
心願や悩みがあって迷うさなか。
そんなときに聖天様の話を聞き、信仰したいという興味を持つが、まだ疑問や怖さもあり、どこでどう信仰していいか迷う段階。
2 祈る
縁のある霊場に出会うことができる。
祈願などを頼み霊験に出会う。験を得て大いに驚いたりもする。
神仏の存在を肌で感じる。
3 信仰を始める
信仰を始める。実はこの段階は霊的には眷属神などが信仰をたしかにするため手助けしている。望外のビギナーズ・ラックのようなことにも見舞われる。
おせっかいな人はバカ騒ぎして、それを吹聴して周囲の人間も信仰に誘う。
信仰を深めることによりご利益が増すと考えている段階、聖天を味方にして欲はどんどん深くなる。お経や真言は何べん何時読むとか、供物はなにがよいとかいうことには目が向くが仏法自体にはまだ興味はない。
4 信仰が定まる
浴油やそのほかのご祈願を頼み、聖天信仰を深めていく段階。
ただし、ここでいくらかでも仏法に心するか、飽くまでご利益にのみ興味を持つかで末が大きく方向が分かれる。
ご利益本位の人はいかにしたらもっとご利益が大きくなるかのみを考えていく。
硬く断ち物など立願してそれが信仰だと勘違いしている人も出る。
人によっては欲願に目がくらみ毘那夜伽信仰に進む。これが早晩自滅の道である。聖天信仰は危ないというのはここのこと。
※当院では受戒などをして前の3段階を省き仏教の信仰と別でないことを知っていただくよう強調しております。当院ではどこまでも欲願本位の信仰者は排除します。
5 疑う
信仰により順調に来たがそのうちにうまくいかなくなり。聖天信仰に疑問を持ったり、ほかに何かよいものはないかと模索する。仏法にこころするものは仏法に答えを模索する。信仰即修行に入る段階
ご利益本位のものは信仰を離れていく。
実はここからが信仰としては初門でありスタートである。
此処以前は物欲しいだけの信仰で本物ではない。
毘那夜伽信仰の人はここでおしまい。大きな障礙を受けてどうにもならないことも。
6 知る
闇を潜り抜け、夜明けを迎える。信仰を理解する。アラジンの魔法のランプのようなものではなく、叶うものは叶い、叶わぬものは叶ぬという分別のできる段階。
己れのいかなるかここに至り知る。
聖天信仰と仏教の信仰がひとつになる。
ここに至って信仰がようやく理解できる。それは同時に自分をいかなるものかよくよく知ることでもある。もはや信仰においてご利益本位ではない。よそにいくら何があると聞かされても迷いはない。この段階で初めて一人前の聖天信者といえよう。
常々言う「今信仰してる聖天様を迷わないで大事にして」というのはここを見越しての話。
7 感謝
信仰の円熟期を迎える。
我は我独自の存在であると知り、同時に人との比較をやめる。信仰が外儀を超えて内なる信念へと変じる。
天尊をはじめ諸々の縁に縁に感謝する信仰となる。
聖天信仰が自分の中の一部になる。
この段階ではもはや浴願として求めるものとて、とりたててないが、祈りは常に忘れない段階に入る。
実は聖天信仰でなくても現世利益から始まる信仰は大体みな同じです。