今日は聖天様のお祭り。
密供ではなく皆でお経を読みました。
最勝王経如意宝珠品 大聖歓喜天使呪法経 尊勝陀羅尼などなど
皆があげるお経を聖天様が喜んでいるのが如実にわかる。
それを感じることができました。
やはり私たち式衆だけでなく皆が参加してくれるのがいいんですね。
皆さんに上げてもらうことが嬉しいらしいんです。
読経自体が嬉しいということもありますが、聖天様はそうやって皆さんが自分の為にしてくれることが嬉しいんですね。
大切な方からのプレセントはそれが何であれプレゼントされるそのことがうれしいのと同じようです。
それと私がちょこっとだけ嬉しかったのは、フ~ン・・・みな意外とお経をあげでいるんだな・・・と思ったこと。
日ごろからそこは期待していないんですね。
しばしば、経本渡すとのっけから「このお経のどこを読めばいいのか?」と皆さん聞くから。
どこって?全部に決まってるでしょ。そういうとエーッツというので・・・じゃあ、好きなとこ読めばいいというのみ。
真言も何回上げたらいいとか聞くから好きなだけ1000回でも1回でもと言っています。
初めから読みもしないうちに「どこをどうはしょったらいいのか?」を聞くようなアホウな質問なんかにまともに答えられないですからね。
大体そんなもんだとおもっていたので期待していない。
でもそうはいっても、尊勝陀羅尼のような長い陀羅尼を皆で唱和してそうぶれないのは拝んでいるからなのだと思う。
よくお経がおぼえられないから上げないという馬鹿なこと言う人がいるがそれはただの下手な言い訳です。
あげる気すらないのが明々白々。
お経は憶える必要などない。書いてあるのを読めばいいんですから。