仏教には不瞋恚戒があります。
振り返り見れば我々はちょっとしたことにもよく文句言ったりする。
でもお金に対してサービスががゾンザイすぎたり、貸したものを返してくれなければ文句を言うのは当たり前。
そういうことまで瞋恚と言っていたら日常生活はあり得ない。
私はそんなのは瞋恚じゃないと思っています。
だからどんどん文句言います。
瞋恚とは行為を咎めるのにとどまらず、存在に憎しみを抱く瞋りです。
仏教でいう悪とは悪の行為を言う。
可能性としての悪は皆持っている。
そこを憎めばジェノサイド的にさえなる。
そこを間違うと行為の悪から可能性としての悪を引き出して考え、果ては○○は悪だと言って皆殺しにするようになる。それはおおいなる間違いにつながる。
歴史的に見ればそれは明白。
不瞋恚戒のある一方で密教のほとけには明王様のような怒りの仏もある。
明王の怒りと我々の怒りは違う。
明王の怒りは方便であって感情に支配された瞋りではない。
いかに怒り狂って見えようとも。
でも同じ怒りでも明王の怒りをまねることから始めたい。
明王の怒りは無駄がない。
なぜなら怒ることを意識している怒っている存在だからです。
それが明王の怒りだと思います。
我々の怒りは怒ることを意識していない。
実は怒るのでなく、相手の言動につられて怒らされている。
怒らされれば智慧の働きは失われる。どんな知的な人でも。
怒る前にワンステップおきましょう。
怒らせれるのではなく怒ろう!
そうすればその瞋りは感情に支配される怒りではない。
必要な怒り。智慧の怒り。
明王の怒りに一歩近づく。