怒りは時には必要な感情です。
不正を怒る。残虐行為や無礼な行為に怒りを感じる。
これは当たり前でしょう。
仏教の目的は無神経な人になることではないですから。
しかしそれを表現することが有効なメッセージになるか否かは別です。
およそ人の徳というものは怒りを暴発させないことによってできるものです。
善行を積んでも瞋りに振り回されれば人は離れます。
自然界では怒りは警告です。
ライオンなどが吠えるのも威嚇です。
ライオンは本気で相手を殺そうとしたり獲物を襲うのに吠えたりしません。
相手を排除する現実行動に怒りはいらない。
そう考えると怒りはメッセージなんですね。
そもそも。
そう考えると怒りは有効に使うべきで暴発させては意味ないわけです。
それではライオンの方が賢いことになる。
人は自分は何のために何のメッセージとして怒っているのか考えないといけない。
それが考えられるなら怒りは「瞋り」ではない。
人生の道具。
忘れていけないのは怒りは自己表現なんだということです。
それ以外の瞋りは無駄です。
たとえば国際紛争でもミサイルはいつでも打つことができます。
しかしむやみにボタンを押せばもうあともどりできない。とりかえしはつかない。
せっかく開運しても感情を制御せず瞋りを暴発させれば人はおのずから去り、孤独になります。
孤立無援の人になれば、どんなに優れていようと開運などあり得ません。