人生を豊かに思うように生きたい。
若いうちや現役時代は皆そう思うものです。
そのためにいろいろ手に入れる。仕事、お金、ステータス、車、マイホーム、配偶者、子供、部下、組織・・・
祈りや信仰もそのためとは自覚しないけど往々にしての望みをかなえる手段になったりする。
しかし、定年になり、子供も独立し、親はなく、兄弟も死に、配偶者も死んだり、寝たきりになる晩年。
得ることでなく失うことをもっぱらとする。
やがて健康を失うことにもなる。存在も人に知られないようになる。
最期には命も確実に失う。
時間とともにどんどん失うことになる。
そこにきてもう何かを得るのではなく、得ようとする自分の方が失われていくのに気が付く。
でも本当の信仰はそこからが勝負でしょう。
得るための信仰はおしまい。自分を見つめる信仰への切り替えが始まる。
自分とは何だったのか?そこに秘密がある。密教風に言うなら如実知自心といってもいい。
だれでも信仰のホンモノしか求められないそういう時期が来る。
インドで人生の晩年は森林期と言い、山林に入り宗教的な生活をする。
これは理想的だと思う。人の生き方として。
でも得るための信仰がおしまいなら信仰はおしまいという人はさみしいね。
晩年になってもう年だから信仰やめるとか言う話を聞くとこの人信仰を何だと思っていたのかなと思ってしまう。
今まで現世利益しか考えてこなかったなら、これからが本当の勝負なのにね。
所詮仏様さえも手放せるようなものでしかなかったの?
最期の最期にあなたに残るのは仏さまだけだと思うけどね。
人生のツールでしかなかったんですね。・・・そういうのはさみしい信仰です。