昨晩、上座の弟子と話をしている中で、なにかと初心のうちは師匠と相談する。
しかし行者が一人前になるにつれて本尊と相談するものだという話をしていた。
何をどう祈るべきか。
これはどうしたらよいのか。
本尊はどう考えているかで決めたらいい。
それが一人目の行者だ。
この弟子の場合、忙しいのでお札が追い付かない。御札の発送がおくれると心配して信徒さんから催促も来る。
それでもうしまいには内符もなしでもいいだろうか?
先に御札を発送してあとから拝んだらどうか?
などという話になってきたのでその時は
「別にキチンと拝めてるなら好きにやったらいいでしょ。頂くのは御札代じゃなく祈祷料だから。」と言っておいた。
「そんなのは駄目だ」と言ったところで「でも無理なので・・・」とか言うのが関の山。
だからそういう時は好きにしたらいいでおしまい。
そうしたら本人がいろいろしてみて思うところあり
「やはりそれは駄目だと思います。時間がかかり遅れてもお札はしっかり拝んでから出すものだと思う。」という。
冷暖自知、これが私の言う本尊と談じるということだ。
勿論、商業的には上に私が話したようなことをしてるところは山ほどある。
むしろそれが普通だ。悪くもなんともない。
勿論、普通の祈願寺でも目的別に真言を書いた内符等書かないし、拝んでおくのでと先に御札もくれるところもなくはない。
だがそういう普通のことをしていてどうして我々のような伝統も何もない弱小寺院に祈祷など頼む人がいるだろう?
それはあぐらをかくことではないのか?
うちだって本堂は15畳くらいしかない。
そこで年間ありとあらゆる祈願をしている。
よく拝むこと以外に取り柄は何もない。
それは御簾の奥ですること故、信者の目には見えないことだろう。
だが本尊は知っているのだ。
ここが何より大事!
最終的にはおのれと本尊。そのやりとりしかない。
「そんなやりとりなんか霊能者ではないからできない。」というのはウソだ。
拝まない奴のセリフだ。
よく拝めば通じてくるものである。
それが「加持感応」とか「感応道交」といわれるもの。
そういう意味でわたしは霊能者ではないといつも言う。
霊能者などになる必要もない。(なろうと思ってなれるもんでもないだろう。)
だが理想的に言えば常に「加持」の状況にあることが望ましい。
拝んでいるときはもちろん、他人と対談したり、なにかを決断する時。
常に本尊と談じながら進める。
出来ないというなら本尊とエンプティチェア( ゲシュタルト療法と言われるものの一種で相手を空の椅子にいるものと仮定して対話する心理的技術 )でもしてみるといい。
「それは自分の心の中の仏であって本物じゃないでしょ?」という人いるけど
馬鹿を言ってはいけない。
あなたのこころの中の仏以外にどこにも仏など存在しない。
どこにいるというのか?
宇宙のどこかか遠くアンドロメダ大星雲のかなたやⅯ28星雲にでもいるというのか。
「心中にありてすなわち近し。」と弘法大師も言われている。
それこそが仏。
「即心是仏」