○○は○○に非ず。これを○○という。
こういうフレイズが繰り返し使われる金剛般若経。
ここになると論理学者の皆さんがああでもない。こうでもないという。
論理学のほうは知らないがそう難しい事とも思わない。
仏教の喩に「一見四水」というのがある。
水は我々にとって飲み物であり川であり、海であるが、魚には住むべき空間であり、餓鬼には焔に見え、天人には踏んで歩ける堅固な存在だというのである。
つまり我々の形式としての言語化があり、もともと言語と事物が同時にあるわけではないということであろう。
あまりいい喩ではないかもしれないがペットとして買われる両生類にウーパールーパーというのがいる。昔はテレビコマーシャルなどにもみられた。
これは実はタイガーサラマンダーなどの幼生形態を維持したもので動物学的には「アホロートル」という形態のものをいう。だが、このアホロートルとしてかわれているものも個体によっては環境が変わればアホロートルではなく容易に成体に変化もする。
すなわちアホロートルはアホロートルに非ず、これをアホロートルというが成り立つし、同じことがタイガーサラマンダーでもウーパールーパーでもいえよう。
つまりは認識の枠組みとして言語があり、アホロートルもサラマンダーもウーパールーパーも同じであって同じではない。これをウーパールーパーという。
さらに飼っている人がこれに名前でも付けようものならそれも同じだ。
うちにはポチという名前のがいた。
ポチはポチに非ず、それをポチという。
天地自然にそのような区別はない。そこに我々が介在し分別してこそ存在する。あってないものだ。
物知りな人の中には一見四水は唯識の言葉で般若経系ではないのでは?という人もいた。
それこそ「唯識は唯識に非ずこれを唯識という」だ。
わかっているようでなにもわかっちゃいない。
分かった気になるために言葉をあれこれいじるのを戯論と言って嫌う
天台流にいえば般若の教えは通教で四教に及ぶ根本思想だ。
仏道は難しいと言えば難しいが高度な知的了解がないと無理とかいうものじゃない。
パンタカのような知的に障害があったという人でも歩める。
私のような単純な考えの人間でもできないわけじゃない。
体で当たるか、頭だけで当たるかの違いだが、仏教は前者だ。
古代ギリシャのソフィストたちのように仏教を知的なアクセサリーにしょうとするものは戯論者の最たるものだ。
いつまでたってもパンタカに遠く及ぶまい。