金剛般若経は大般若経600巻のうち、能断金剛分という。
煩悩をよく断ち切るということだろう。
般若の利刀という意味でしょう。
煩悩を断ち切るにはその根底にある認識を粉砕してしまうのがよい。
だから空ということは実は認識の否定でもある。
私たちの認識の枠組みを壊して物を見る。
そうなるとそこにはもう良いとか悪いとかない。
だから人相(個人を分けている分別の考え)
衆生相(仏とか衆生とか言う分別の考え)
寿者相(幸福とか不幸の分別の考え)
いずれもないという。
是もなければ非もない。
こういう考えはもちろん世間知の考えではない。
般若経の先に花開いた密教経典「理趣経」ではもっとすごいことを言う。
なんと!一切衆生を殺害しても罪にならないという。
でも、これも同じことだと思います。罪にならないではなく罪という概念が粉砕されてしまえば罪を問うということはない。ほかにも罪になることは存在しない。
だから一切衆生を殺すほかに別にもっと悪いことがまたあるわけじゃない。
悪だの善だのという概念や認識の枠が粉砕される表現。
この考えのまま断ち切って入滅してしまえば阿羅漢になる。もう世間の人ではない。
しかしそのままでは世の中では普通に生きては行かれない。危なくてしょうがない。
そこはそういう認識のもとに立つ共通了解の空間としての僧団サンガが必要だ。
世間では能断の利刀は鞘に収めねば危ない。
サンガにいるのではなく、この世に戻ってきて分別智の世界に生きるには分別という刀の鞘。つまり煩悩が必要なのです。
そこに立ち返らないといけない。
悟りという牛を探す絵物語「十牛図」でいえばいちばん最後のなにもないところ。
逃げた牛もいなければ、探す童子もいない、
もともと何もなかったような顔で生きていく。
そうでないといけない。
だから金剛般若経は○○は○○に非ずと言う一方で必ずそれを○○というのを忘れていない。
そこのことを濱地天松居士は掃除をしたらホウキをかたずけなければ今度はそいつがゴミになると言われた。
金剛経では教えとはかの岸にわたるための筏でしかない。法すらなお捨てるべしという。いわんや世間法をやという。
だからやれ真理だとかやれ悟りだとかを世間にいながら声高に叫び、理屈の刀を振り回すような子供じみたことをせず、飯を食ったら茶碗を洗えということでしょう。
さいごに酢屋の桃水禅師のようにただの酢屋の商売をして生きていく。
そこまでいかないとあぶなくてしょうがない。