昔、師匠の代にある信者さんがいて大井のお寺にお地蔵様を立てさせてくださいと言って建立した。
寺が立てたいと言うというのではなく。自分が立てたいと発願したのだ。
だが、たてたらそれっきりでお彼岸にもこない。しまいにはどっかへ消えてしまった。
多分どこかで「お地蔵様を立てたら悩みが消えるとか福徳が増す」といわれたのだろう。
だから立てればいいのだろうというその思いで立てただけらしい。
「こういうのは建立したとはいわない。
立てたらその都度、供養させてもらいにくるというのが本当だ。
自分が仏像を立ててやったと思っているんだろうが、これは祀り捨てしていったのといっしょだよ。返って悪業を作った。
お地蔵様がお気の毒だ。」といわれた。
当時は水子供養ブームで確かにお地蔵様を立てることがさかんだったが、師匠はお像を立てて供養しきらないのなら、その都度供養する経木塔婆の方がよほどいいと言っていた。
地蔵本願経には確かに造像の功徳を説いているが、それは信仰し供養するするために立てるので立てさえすればそれでいいというものではない。
一知半解というのはそういうことでしょう。