聖天様は怖いという。
確かにそういうところある。
仏教に貪瞋痴は有ってはいけないわけだから、聖天様にもお怒りも罰もあるわけないというのはただの希望的な甘いものの見方です。
ハッキリ言えば罰があってこその聖天様の存在であり、そこにはお怒りや罰はなくてはならないと思います。
聖天様と長い長い付き合いのわたしはそこはよくしっているつもりです。
それは聖天様じゃなくて…・とか、いろいろ考えるのは勝手だが、いずれにしても聖天様を裏切ったり甘く見て窮地に立つことがおきたことに変わりはない。
時にはなぜこんなひどい目にあわすのかというような目にも合わす。
そのへんは私たちとは考え方も全然違う存在なんだと私は考えています。
人間的な目でははかれない。人間的な目で見てはいけない方です。
でもそれもこれも仏の仕組みなんですね。
本当は聖天様が面白くないからといってそういう祟りがおこすんじゃない。
たとえ形はどうあれ本当の意味は別にある。
すべてはお諭しとみ教え。
結果から言えば無駄なことはなさらない。
そう思う。
これは神だからできる考え。
人間にはない考えです。
神に人間の価値観は押し付けられない。
それは傲慢というものだと思う。
とりわけ動物の頭の天部は人間と価値観はまたまるで違うのです。
一見荒ぶる魔神のような聖天さんだからこそ、その頭にあえて大聖とつくのだと思う。
「決してわすれるなよ。見失うなよ。我は聖者であるということ。我は大日如来の等流法身なるぞ。」ということでしょう。
大聖歓喜天とは、そんな聖天様の信仰から真理を学ぼうとする者ののみが許される呼び名だと思うのです。
なにがどうあれ、どこまでもうたがわず聖天様を信じる人のみが呼びうる。
その名こそ「大聖歓喜天」