僧暦の長いお坊さんと電話で・・「どういうわけか、大体、経験上、はりきって修行したいと息巻いて熱心な人ほど実際は早く脱落しますね・」とはなししていた。
「そう、そう、だから最初は熱心だといっても全然わからないですね。」と。
1,2年なんかは全然分らないね。場合によっては3年でも4年でもわからない。
うちも見事にそういう人は時間たつといなくなる。
だからやる気満々にあるものほどはそこを盛り上げず、こっちはむしろセ―ヴに回るくらいでちょうどいい。
何時頃得度できるかと聞かれても「ウ~ン、まだ早いよ。・・・・まあ、そのうちね。」とか「でも本当に必要なの?もう一度考えたら」でおわるくらいでちょうどいいと思うようになりました。実はわが師はそういう風でした。
だんだん私もそうなっていく。
ありていに言えばなるべくやる気をそぐ。
そがれて引っ込むようなものは所詮それまで。
最近はそう思う。
そうやって残ったものにしか法を伝えなかったわが師
私はというと真逆で昔は尻ひっぱたいて叱咤激励で有無言わさずやらせた。
今の門下の住職までなった人は全員そうです。
だけどそんなの今時、無理だし、気が付いてみれば無意味。
下手すりゃ逆切れまでされかねない。
要するにやる気があるとは言っても意味が違うんです。
早くかたちを整えたいだけ。自分にないのはそれだけだと思っている。
そういう人はその人なりに満足してる程度の知識もあり、ありていに言えば自分の興味やペース。自分の主義主張のもとで形式だけ整えるのにやりたいだけですからね。
そういう人は私の指導など初めからいらないんです。実はこちらに初めから何も求めていない。
だから仏教物知りや利口な人ほど続かないな。まず無理・・・と思ってみてる。
そういうわけで、よその寺では欲しがるかもしれない「凄い人」や「できてる人」ほど私は弟子にはしたくない。荷が重いもの。
およそへどうぞ。
ハッキリ言えば凡僧の私が指導するだけの器量に欠けていると言われればそうですね。
でも事実だからしょうがない。
修行以外にも「仏教の勉強したい」という人にも私は知識人や学者じゃないから仏教系大学の社会人枠とか、公開セミナーをお勧めしています。
仏教の勉強などと銘打って教えるほどの教養はないですから。
そういうタイプの方は当初から目的があってしてるので、それがうまく運ばないとみると早々に去る。それはそれでもちろん去ったほうがいい。
望むものがないなら当然去っていいでしょう。
さるは追わずでそのほうが私にしてもいい。
むしろ得度してからやめるだの、なんだのは宗門や宗祖に対し申し訳ないし、恥しいことでもある。自分に人を見る目がない証拠みたいなもんです。(実際ないけどね)
だからわざとペース落として焦れてもう辞める人が出るくらいにほうがいいんだね。
でも、よくしたもので縁のない人はその前に自分からいなくなる。
縁のないものはこちらも引き止めないので「あ、やめる?そうですか。お元気で。」でおしまい。
長い目で見て修行のレースは利口な兎と鈍くさい亀で言えば亀さんの勝ちです。
今残っている人は自分の回り観てもよその道場でも皆、亀さんタイプですね。
亀さんはどうということもなく、なんとなく黙々とやっている人です。
これというやる気もろくに見えないが、とはいえ決っしてやめもしない。
目利きの兎さんのほうはコースを出ていってしまったり、途中で大滑りに転んだりが多い。
うちは亀さんしかいないガラパゴス諸島でいいんです。