「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」
有為法とは有為75法といって五官認識の世界。まあこの世です。
「そういうものは時間推移で全部なくなる泡や稲妻のようなものだと思いなさい」と金剛経はいいます。
今朝はこのことを思って座禅しておりました。
有為法は無為法の対語です。「有為」は比較的理解できますが「無為」は難しい。
なんとなれば見解が分かれている。
唯識では「心王」が無為法だという。
例えばネットで検索すると
『中論』では、有為法が実有なるものとして成立しえないことを述べたあとで、「(生と住と滅とが成立しないが故に)有為は成立しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」と主張している。ただし仏教学者の中村元は、有為と無為とは互いに排除する関係にある以上、有為が成立しないとしても無為は成立するかもしれないとしており、一般に『中論』の推論の形式には形式論理学的には不正確なもののあることを、仏教学者の宇井伯寿は指摘している。中村は、これは中論が縁起に関し相依説(あらゆるものは相関関係をなして成立している)を主張しているということを考慮するならば、「甲によって乙があり、また乙によって甲がある」と言いうると述べている
とかあって難しい。
だがこれらは恐れながら仏教を理屈に還元して哲学的に追及してるだけなんですね。
中村先生や宇井先生は仏教学者では超一流でしょう。
宇井先生に至っては仏教は愚かインド哲学全体の権威でもある。
だからその素晴らしい頭脳で哲学的に考えるには私のようなアンポンタンはもとより、遠く余人の及ぶところではないでしょう。
であってもこれは学問の世界。仏道修行者ではない。
例えば、中村元博士は、「有為と無為とは互いに排除する関係にある以上、有為が成立しないとしても無為は成立するかもしれない」といわれている。
互いに排除する関係。AはBではない BもAではないとすればそうなろう。
しかし私に言わせればこの西洋哲学的な分別智がもう間違いなのだと思う。
まさに金剛経の言う「○○は○○に非ず。それを○○という」そう言う教えの下ではこの前提は役に立たない。
華厳経では「縁起」つまり因縁生起そのものすら無為法という。
「一般に『中論』の推論の形式には形式論理学的には不正確なもののあることを、仏教学者の宇井伯寿は指摘している。」というが。これもまさに中論は形式論理学ではないからだと思う。
今の仏教者は学者に弱い。
禪をしない禪者
念誦しない密教者
律を研究するだけの律僧
念仏しない念仏者
唱題しない法華の行者
でもって、てっとりばやく仏教を理解し、檀信徒に伝えるためには「修行」より「辞書」という羽目になる。
そこに書いてある大学者のいうことだから間違いない!と思い込む。
知識的には確かにそうでしょう。
だがこれを拝読しても僧侶自身が全然理解できていないということは少なくない。
なぜ?すら出てこない。
本当にそれを知ろうとすれば辞書の短い説明で終わることはありえない。
でも仏教を知的理解に限定してしまえばこういうことも当たり前なのかもね。
中村先生 宇井先生 偉大な学者を引き合いに出してごめんなさいです。
仏教学シロウトのたわごとです。お許しあれ。