法華経の安楽行品。
読んでみるとあんまり安楽じゃないね。
特に人間関係はえらく厳しい!
女性に説法するときに歯を見せてはいけないとまで書いてある。
要するに一緒になってキャッキャッと騒ぐのは駄目ということでしょう。
珍しいのは五種不男。
去勢した人や両性具有のひと。
インドではヒジュラという女装した、あるいは去勢までした遊芸や呪術をする人たちがいる。時には売春も。
修行者には縁がない人達ですから親しくしちゃいけないとある。
こういうのは修行者の在り方だから、世間的なLGBTの差別とはまた別。
釈尊の説法には人ならぬ夜叉羅刹のような鬼神やナーガやカルラのような怪獣まで来たのだからそこに差別はない。
なんと!五種不男の中に半月は女性半月は男性というのもかいてある。
肉体的にそんな人あるの?ありえないよね。
アニメのガッチャマンに出てくるベルク・カッツエという覆面姿の悪の大幹部がそうだったと思うけど現実にはないと思う。
アニメの中でもカッツエさんはスパイ活動のためそういう体にされて散々苦労したけどと最後に総裁エックス(悪役のボス)に裏切られて、錯乱して死にます。
「こんなことなら普通の人間でいたかった!」と絶叫する。お気の毒です。
現実に毎度半月で性転換したらと色々と苦労するでしょうね。(笑)
ほかにも格闘家だの、風俗だの、殺生する人だの、家畜商う人だの権力者や政治家だのと親しんじゃいけませんよといろいろ書いてある。
そういうとすぐ差別のなんのとうるさいけど。こういうのは社会的な考えじゃないんです。
此処は大事!
もともと法華経にかかれる出家は「社会人」じゃないのです。
サンガに暮らす人々。目的は修行のみ。
だからこれはそういう修行者がなれなれしくしてはいけない人たちということです。
説法はどなたにも平等になされます。
でも広い意味でやはり仏教者は友達を選ぶのは大事だと思う。
なぜなら悪人と親しめば悪には抵抗なくなるからです。
人の悪口言う人と一緒だと自然と自分も悪口いうようにになる。
殺生平気な人と一緒だとし自然と自分も殺生に抵抗なくなる。
ズルが常習の人と仲良くなれば自分もズルになる。
だって友って事や価値観を共にするから「とも」なんだもの。
私もだれとでも話しくらいならできる。当座は仲良くはする。
相手の気分が悪くなるようなこと言わなきゃいいだけですから、
嫌なこと相手がぬかしても空笑いしてりゃ同じ。
でもそれ以上親しくなってはいけない人、友達に会ってはいけないというのあると思っています。反社会勢力とかじゃなくても。
因みにフェイスブックのトモダチなんかは本当に友達だとは考えたこともありません。
失礼ですが・・・。