よく、弟子からここの作法は略していいか?真言の数とかも略していいかときかれる。
あるいは何べんと唱えるべきかとか。
私は「いいんじゃないの。好きにすれば」としかいわない。
とくに上座の弟子にはそうとしかいわない。
ダメだと言えばやな顔するくらいだろう。
ただしだ。それで結果が出るの?それならいいよ。ということだ。
私と弟子の間の承認欲求なんてどうでもいい。
くだらない。
問題は信者さんに通用するかだ。
その辺は自分の肌で感じて祈るものだ。
料理も舌で探って作るだろうが。同じこと。
ある意味祈願は料理屋の料理に似た部分がある。
美味しい料理を作るにしてもどこまでも凝るわけにもいくない。
祈願も同じだ。重い病人だから昼夜三時にわたって祈るというわけにもいかない。
(例外的に自分の判断ではそうする場合もあるが)
しかし出汁はインスタントじゃ絶対にだめとか、素材は新しいものでなきゃとか大事な急所は絶対はずせないだろう。きちんとした老舗料理屋なら絶対譲れない部分はどこの店でも持っている。
そこを妥協すれば看板が泣く。
結果おそまつな料理で客が離れる。
どこでもそうやってるから・・・ならば、なにも料亭でなしにファストフードでもファミレスでもいい。
中華というだけなら専門店でなくてもバーミヤンでいいということになる。
バーミヤンが別にまずいとは思わないが、(実は好きでよくいく。)バーミヤンでないと絶対ダメというものでもないだろう。
でもこの絶対ダメという人だけが本当の信者になってくれるのだ。
お不動様ならどこでもいいんだけどという人は近場にも祈願霊場があると知ればそこにいくだろう。
料理屋なら座敷の見事さだの庭だのよりまず味だ。
祈願も効かないと意味ない。