人間は人さまから後ろ指は刺されたくない。でも特に良い人と思われなくてもいいというのが普通かもしれません。
よく思われたい相手は知り合いや利害関係だけで十分。あとは憎まれたりしなきゃそれでいい。
大方それが偽らざる人の心だと思う。(わたしも普段はそんなもんです)
でもこういう危機の中にあっては、往々にして人は自分が鬼なのか菩薩なのかはっきりしないといけない非日常的な場面にも出くわすことがあります。
イタリアのジュゼッペ・ベラルデッリ神父は新型肺炎にかかって、数に限りある「人工心肺装置」を若い人に譲ってくださいと言って、辞退して亡くなってしまった。(合掌)
若者の命と神父の命の命自体は優劣はないとおもいます。
むしろ不特定多数の若者より、このような立派な宗教者である神父に亡くなってほしくないという信徒も多かったはずです。
しかし若い者に…という思いには、ただこれから将来ある命というだけでなく、そこにイタリアという国の未来も含まれていると思います。あるいはもっと広く欧州の未来。世界の未来も。
なにも年配の人間のすべてがこの神父の様に命を投げ出すようでなくても非難はされない。それはそうだろう。
それが当然だであってもちろんいけない。
誰も犠牲になって命を捨てることを強要する権利はない。そのような習慣があっては絶対にいけない。
だがそこまででなくても、人は小さな決断においても鬼か菩薩か。天使か悪魔かにならなくてはいけないそんなときもある。今の世相がそうだと思います。
だから小さな決断において、なるべくわたしたちは菩薩か天使を選びたいと思います。
それを選ぶのがそんなに難しくない場面も少なくないはず。
それだけで世の中は地獄になるか浄土になるかがかなり違うと思います。
合掌。