臨済宗の名僧白隠和上の書に「南無地獄大菩薩」というのがあるそうです。
「日ごろ熱心に信仰しているのになんでこんな酷いことに!?というところをもう一つひどい目にあって初めて信仰は分るのだ。
これだけ酷いんだからもう神も仏もないというところに行かねばいけない。
信仰なんかしてもダメだ~!というところに行かないとわからない。
そこでおのれは何のために何に手を合わせていたのか?
そこでおのれの信仰のしているとはいかなることをいうのか?
地獄の底で問い直す。
その公案を通過できないとダメだ。
そこを通過して初めて「つけ焼き刃」でない実践で使える真剣になる。
一刀両断に切れる信仰になる。
地獄見なきゃわからないこともある。
地獄見てこその真実の信仰
地獄大菩薩ってそういうことかなと思う。