ある鎌倉時代の天台の古書に双身毘沙門天の法は成就したら。逆に仏具などを不浄に思って捨てたいとおもうようになるとあります。
この仏具とは当時のことですから葬式の具などではないでしょう。昔の天台宗はお葬式はしませんから。いわゆる法具のことと思います。
同じように荼吉尼天の法でも仏具などを不浄に思うようになると言います。
これらの言わんとするのは天部の法は、世俗から離れ仏道の目的を遂げるための仏教通途の「出世法」とは別な、世間的な「願望成就の法」つまり「世法」であるからということらしい。
しかしながら・・・古への大先輩の言っていることに修行の浅い私ごときがどうこう言うのははなはだ無礼ではありますが、この考えはそのままストレートにとれば大いに疑問です。
世法の成就であっても出世法の成就も世・出世の区別を超えたところにあるというのが本当ですから、これはないでしょう。
世俗の執着のままでは世法もまた真の成就はないものだと思うのです。
むしろ法具などを捨てたい。そういう心が起きるなら、それは魔事のなせるところと思われます。
聖天尊などもお経や念誦ばかりでお供物を上げずにいたら「あら、真如くさや!」今で言うなら「抹香臭くていけない」というようなことをいわれたといいます。
これなども「出世間」じみたことにこだわりすぎるのを天尊が嫌って諫めた話ですが、その故も世間と出世間を超えたところにいずれにせよホンモノはあるからでしょう。
先の古書の話の真意もそのあたりではないのかと思います。