心外無別法
仏法は突き詰めればそういうこと。
心のほか何もない。
こころが作る世界で生きている。
外界はないのか?
ここでが外界の説明が出てくれば主体客体が生まれて実在論となるのだが・・・
外界はあるとかないとか、そういう実在論は大乗仏教には存在しない。
上座部は「説一切有部」などはとても実在論的が、大乗は詰まれるところが認識論なのだろう。
客観もまた主観の変形。
外界もまたおのれの変形。
おのれの認識からおのれは出られない。
生きるとはその認識の連続をいう。
天台の三諦円融も事物のことではない。いってみれば認識論だ。
空・仮・中もひっくるめて諸法実相。