こんな方がいました。
私の聖天様の本の書評に「祈願がかなった!」と書いてあったので、家で聖天様の真言だけとなえているけど駄目でしょうか?
という質問。
なぜお札を受けるとか祈願に行かないのか聞いてみたがどうもハッキリしない。
要は御利益は頂きたいけど特定の聖天様とつながるのは嫌なのだということらしい。
これってお蕎麦を注文したいけど特定の蕎麦屋に出前頼むのは嫌のなのと一緒です。
聖天様といっても具体的にはお祭りされているどこそこの聖天様です。
そういう具体的な時間軸上の働きは報身仏の働きです。
虚空に呼びかければそれは法身仏に対する声になるけれど
法身は形にならないから呼びかければそれは必ず報身、もしくは応身となって現れる。
つまりどこへ行っていいかわからないのでとりあえず呼びかけているというなら必ずご縁を頂く聖天様に出会います。
でも、そこを拒否すればそれでおしまいです。
そういう信仰はあり得ない。
ハッキリ言って信仰自体が嫌なら頼む資格もないと思う。
払わずに得られるものなど何もない。そういう風では無駄だからやめた方がいいよと言っておきました。
時々、信仰は嫌いなのでそれをしないで何とかとしたいと言う方がいますが私は宗教家です。相談するところ間違っています。
信仰以外のことは私は全くノータッチです。
家のものが信仰嫌がるんでとか言う人もあるけど自分がするだけなのは勝手のはず。
どんな信仰でも別に家じゅうでやらないと罰が当たるとかいうことはあり得ません。
そんなのはウソです。
信仰は個人。個人のものです。
信仰をするしないは人の勝手ですから曲げて信仰してもらいたいとすら思いませんが、それすらもできないという人のお手伝いをする気は全くありません。