顕教の祈祷、密教の祈祷ではなにが違う?
経立てか咒立てか?
それだけでないのです。
顕教の本尊というのは実は教主釈尊だが.もっと言うなら顕教の本尊はそのあげている経典そのものです。
故に顕教では釈尊を本尊も見立てるが実は「法宝」を礼拝する。
つまり法華経や般若経そのものです。
密教では経部と言われる仁王経や法華経、宝篋印陀羅尼法などを拝むが実は般若菩薩や五大明王、普賢菩薩や釈尊などの「仏宝」を拝むのが特長です。
顕教では理を礼拝し、密教では智を礼拝するといってもいい。
「理智不二」という言葉があるが、理は外にあり我々を蔵する。
そうみるのが密教では胎蔵界に代表されます。
智はその理が己れが内にあってこそ智になりうる。これは言ってみれば金剛界。
言っておきますがこういう内外の区別も本来は仏教自体にはありません。説明としてあえて言えばです。
この胎蔵界の捉え方は顕教にも通じます。しかし、理も智も同じものを外に見るか、うちに見るかの違いでしかない。ゆえに理智不二という。
密教では本来はダールマという対象と自分を分けていてはそれは得られないという立ち位置です。
故にこれを「不可得」と表現します。
得るものではなく成るものと考えるから密教はあえて「悟る」というより主客の語よりも「即身成仏」の語を用います。
だから当然の帰結として金剛界の方が密教思想としては発展していきました。
より本来的だからです。
顕教の祈祷札の内符は厳密には法華経の読誦、理趣分の読誦にしても、本尊の真言など用いずその偈の一節などを用いるのが正しい在り方でしょう。真言などを入れてもいいがそれは顕教というより顕密一致の祈願です。
顕教で祈るときはあくまで本尊は釈尊であり、その所説であるお経であって、祈る尊格が観音様であれ、不動明王であれそれは法楽ということになります。
法楽を以て拝む尊格の威光倍増するのが顕教の御祈祷です。
威光倍増のためには本尊の真言などよりも経文の方が本来的です。
神分と一緒のことです。
また法宝の経力を尊ぶゆえに仏眼の加持などを用いずとも経文に力ありとしますから、そのままでよいと思います。
密教的要素のない宗派で祈祷札の開眼作法などというのは私には疑問です。