普賢十大願の第二は「賞賛如来」です。
仏を讃嘆するということ。菩薩はお褒めするということです。
前にも言いましたが褒めるとか尊敬する。
えらさがわかるというのは自分も基本的におなじ徳を持つということです。
法華経ではここのところを「今し、如来と如来とのみ究侭し給えり。」と表現しています。
方便品第二で仏弟子の舎利弗が法華経を知りたくて何度も哀願する。
すでに第一の序品で様々な奇瑞が現れて弥勒菩薩が大いに不思議がると、過去七仏( お釈迦様よりはるか昔に出たという七人の御仏 )より以前に生きていながら童子のような文殊菩薩は「いやいや、文殊よ。おそらく、これは釈尊が法華経を説く前兆だよ。」と教える。
何せ文殊はのちの「龍趣尊上王仏」でもともと人間でなく竜からなった菩薩なのですから寿命は長い。
過去の七仏の時代より前から生きてるのもそのためです。
だから提婆達多品第十二でもなんなく大海中の龍宮で龍たちを相手に布教していたんだという姿が描かれます。
すでにそんな文殊さんの「法華経が説かれるかも?」という話があって舎利弗尊者はそれが知りたくて仕方ない。
しかし釈尊は「止みね、止みね。また説くべからず。」
「いやいや、やめとこう。やめとこう。」と繰り返し言う。
その理由が先の「仏と仏のみ・・・」
つまり仏同士でないとわからないことだから・・・無理でしょ。というのです。
しかし舎利弗は重ねて乞うのです。
それで釈尊もようよう説き始める。
「舎利弗よ。それを聞いても聞きたいのか?」
さては「・・・こやつ本当の言葉の意味を悟ったのだな。」ということです。
つまりこの法華経は内在の仏同士が出会う教えなのだと。
それで次の比喩品第三では諸声聞の「授記」第一号でお前さんは将来、華光如来という如来になるだろうとお釈迦様から告げられます。
授記というのは仏弟子の素質を見抜いてこいつは仏になるという仮約束みたいなもんです。
だから法華経にはもう最初の方で如来寿量品で言う「仏寿無量」。つまり仏さまは今世インドに生まれてきてはじめて悟ったのでは無く。とっくの昔に仏だったのだということも何となく説かれているし、私たちが仏を離れた存在ではないということもおぼろげながら説かれているんですね。
深い意味では誉めるということはそういう一つの説法なのです。
あなたの中の仏につながっているからこそ如来をお褒めするんだという・・・。