普賢十大願の第三番目は広修供養です。
大乗の菩薩は広く供養を修すべきです。
以前にも申しましたが仏教では祈りはすべてが供養です。
祈願というのも畢竟供養でしかない。
ですから厳密にはご回向と祈願は区別はない。
全て祈願と言えば祈願。供養っちゃ供養です。
供養には財法二施があります。
物の供養と法の供養です。
寺院は今は法の供養しかしないようだが、災害時には炊き出しなどしたものです。
供養という字は供え、養うと書きます。
「供える」はあげるだけのことで皆わり合い簡単に出来るが、「養う」のほうは難しい。
もちろん、養うと言ってもずうっと面倒みることを言うわけではない。
時間軸で考えてその人がプラスになる施しは「養う」ということ。
ただただ、放出すりゃあいいではない。
だから智慧のある施しでなければ供養にならない。
場合によっては困っていてもあえて何も上げないのが「養う」になることだってある。
私が20代の頃はまだ。町に「傷痍軍人」の姿でいわゆる「おこもさん」・物乞いをしてる人がいた。わざわざ軍帽かぶった白衣姿や兵隊の格好で日の丸をたててぬかずいている。
凝った人はアコーデオンやハーモニカで軍歌を演奏までしている。
戦争で身内を失ったり、兵隊に出て戦死した人たちの遺族は「かわいそう」と思って施してくれるのだろう。
当時通っていたお寺の最寄り駅にもたまたまそういう人を見かけたことがあります。
その話を師匠にしたら
「戦争終わって何年たっていると思う?30年以上たってそんなことしているなどとんでもない!
たとえ、本当に手足はなくても街頭にやってきての物乞いをし、夕方家に帰れるなら他に生活のためにできることはあるはずだ。そのような怠け者に金を与えることは善行ではなく、人を怠けさす悪行にしかならない。」と厳しく評されました。
これはまたたぶん大昔の話ですこんな話があります。
ある里に山から鹿が下りてきて、妙に人を恐れない。かわいらしく人を慕ってくる風でもある。
それで皆、村人は餌などやってそのシカをかわいがっていたそうです。
そのシカがあるとき、その村にある寺の和尚さんに近づいてきた。
餌でもくれるとおもっていたんでしょうか。
そうしたらその和尚はやおら石をひろうや、ぶつけてシカを追い払った。
見ていた人々は皆「かわいそうに!なぜ僧侶のくせにそんな酷いことをするのだ!」と思ったそうです。
「和尚さん、あのシカが何をしたというのだ‼かわいそうではないか。」と面と向かって言う人も出た。
そうしたら和尚は「ああ、やって人なれしているうちにあのシカは定めて悪人に出会っては命を落とすだろう。だから人間は怖いぞ!と教えてやるのがシカへの供養だ。」といわれたとか。
供養にはこういう供養もある。
禅宗なんかでは喝と棒は一番の御馳走だそうです。
迷いを呵責し。場合によっては棒で撃つ!
これも仏教の供養です。