普賢十大願の第四は「懺悔業障」
普賢菩薩は十地の大菩薩、菩薩としての最高位で実は阿閦如来の化身です。
その普賢菩薩が懺悔・業障を言われるのはいささか不思議ですが、普賢菩薩の懺悔は必ずしも普賢菩薩いちにんの懺悔ではない。
一切衆生に変わりて懺悔するレベルの違う懺悔です。
懺悔は通常、ほかならぬ自分の罪を懺悔するのですからこういうとますます不可解かもしれません。
※普賢菩薩 厨子の扉絵には右に文殊、左に愛染明王が描かれています。
「維摩経」というお経には維摩さんという、大長者で仏法の達人が出てくる。
十大弟子や弥勒菩薩も叶わない。
実際の維摩さんは釈尊の俗人のお弟子のひとりだったらしい。
この維摩さんが病気になった。
お釈迦様は見舞いに誰か遣わそうとしするが皆、維摩さんの前に出たくない。
こっぴどく法論で打ち負かされて、まるでもう小僧扱いされているから、自分では相手にならないと言って固辞します。
ミロク様など「アンタは56億7千万年後に仏になるというけど、仏法では時間は刹那に過ぎゆき、過去のものとなる。いつのいつという瞬間は無限の時で構成され捉えられないと明かしている。だったら、その成仏の時はいったいいつなのだ?」
とやっつけられた。
それで智慧第一の文殊さんだけがその任に値するであろうと言って釈尊のお使いで出かけていきます。
文殊様が維摩に「何ゆえに病を得られたか?」と病床の維摩さんに尋ねると、彼は「衆生病めるがゆえにわれもまた病めり。」と答えた。
要するに衆生の苦に代わって病むという「代受苦」のために病むのだという。
私は若いころはなんかこのお話は超欺瞞的だと思っていた。病むのは自分お体なのに人のために病むなどありえまいと・・・
勿論、基本的に自分が病になるのは自分の健康のせいでしょう。それは今でも間違いない、当たり前のことと思う。
だがその苦に、同じ病苦に合う人を思い合わせることはできると思う。
それが菩薩の心だということでしょう。
病んではいなくても病んだ人の心になる。苦しむ人の心になってみる。
虫歯だってならなきゃその痛さは分らない。
成れば虫歯で苦しむ人の気持ちはよくわかる。たかが虫歯じゃないかとは笑えない。
お年寄りの介護でもお年寄りの気持ちにならぬとできない。
犯罪でさえ、仮に犯罪を犯した人間の気持ちにならないと刑事もうまくはとりしらべできないといいます。
𠮟咤して「サッサと泥を吐け!この悪人メが」というだけでは難しい!
「そうだ、そうだ。懺悔しなきゃならないね。」という普賢様の懺悔は我々と一緒になって懺悔してくれるおおきなおおきな懺悔です。
自分一人でする懺悔じゃないから頼もしいんです。
我々子供が悪さしたとき、ごめんなさい。お許しください。と一緒に相手先についていって謝ってくれる親の懺悔です。
故に法華三昧やその略儀の法華懺法ではこの普賢菩薩を本尊に懺悔行をいたします。
自分が謝るだけじゃないんですね。自分一人でする懺悔じゃない。
普賢菩薩は本尊だけど同時に一緒に脇にいて一緒に懺悔してくれているんです。
高いところから見ていて「そなたはまだまだ、懺悔が足らないな。」などと見ているわけじゃない。
だから大きな大きな懺悔業障になる。
一緒に懺悔して下さる大慈悲の普賢菩薩の懺悔の力を借りて罪を滅ぼすのです。