大乗の菩薩は言うまでもなく仏陀の教えを常に規範としなくてはならない。
それが「常隋仏学」ということ。
原始仏教で釈尊はなくなる時に「自らを燈明とし、法を燈明としてすすめ」と遺言されたといいます。
釈尊ご自身は「大事なのは私でなく貴方。そして法である」と言われた。
原始仏教の理想のままであろうとするタイやスリランカの上座部仏教では釈尊は入滅されたので宇宙のどこにもいない。
彼らにとっての仏陀はあくまでナイランジャー河畔の菩提樹下で悟ってクシナガラで涅槃に入られたとされる歴史上の宗教的偉人「ゴウタマ・シッタールダ」だけです。大日如来や阿弥陀如来はいない。
だから大乗仏教のように仏陀の精神は虚空に遍満しているとは思わない。
でも、タイなんかではプルクアンと言う仏陀のお姿を模した御守りが大人気です。
お寺で出している。
高僧が開眼したものは超人気。
どうやって開眼するんだろう?
だって釈尊はいないはずなのですから・・・不思議。
大乗では法以上に仏陀に帰依する。
生きた人格として考える方が受け入れやすいのでしょうね。
勿論「法」の人格化であり、法を離れて仏も存在しない。
だけど人格だと思えば呼びかけることもできる。
「仏様、お教えください」と言える。
一般の仏教信徒は、疑問があれば分厚い仏典をひっくり返して答えを探すことはあまりしない。
むしろ「仏さま教えてください」でしょう。
でも仏法を学ぶたびにその仏様の中身は豊かになっていく。
ほかの歴史的人物だってそうでしょう。
「へえ、この人はこういうことも言われているの・・・なるほど」となれば、その人物の中身もまた豊かになっていく。
仏法を学び。答えを自己の中の仏に聞く。
その声に従って生きる。
インプットとアウトプットが違う
そういう在り方が大乗の学び方だと思うのです。