金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「音声成仏」

密教と言うのは本来、人前でやるものではないので法儀としては参列随喜したところでよくわからない。

そこで「曼供法要」などになると声明だ。鐃だ、鉢だなどで聞かせる。

音や声が出ないとわけわからない。

 

そこへ行くと顕教は読経など声に出すことが多いので法義としてはやりやすい。

お葬式なども光明供や寶楼閣陀羅尼供などの密供はありがたいが讃衆もなく、お導師が一人で黙々と作法をやられては参列者にはなんだかさっぱりわからない。

お経を唱えるお坊さんのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

つまるところ顕教のパワーにおける重要な一要素は「声」だ。

葬儀法要だけではない。祈祷も同じ。

「声」に有難さを醸し出せるものがないと顕教の祈祷はどうも駄目だろう。

「音声成仏」ということばがある。

成仏と言うと大仰だが声と韻文によってトランスに入り仏の世界に導かれることだ。

そういう意味ではお経に偈や繰り返しの言い方があるのは善く工夫されていると思う。

偈はもともと淵源を訊ねれば、インドで「ガーター」といって一種の歌と言ってもいい。

要するに祈祷を受ける者が「音声成仏」することが大事なのだ。

 

故に私は師匠から葬儀には因隠滅滅のうちに法悦を感じられるような厳かさが必要だし、回忌を重ねればそれに従って、故人も成仏の要路につくのだから声も少しづ明るくしていくのだと教えられた。

 

修験道の五体加持なども半分以上「声」のものだ。

これは逆に音吐朗々と勇ましくあるべきで葬儀の場のように鎮魂的だったり、切々と哀調を帯びた感じではいけない。

歌は、ただただおのれの声の良さを頼りに曲目の如何も考えず同じように歌うのは上手とは言えない。

 

お経も同じだと思う。