「御利益がないのは信仰が薄いからだ」と言うのは古来よくきくところです。
たしかに無関心な物見遊山の遊び半分のお参りなどは何の力もないでしょう。
しかし真の篤い信仰とはなにから生まれるのか?それは逆に霊験からうまれるというべきではないでしょうか。
ゆえに古来霊験や秘跡を言わない宗教はありません。
霊験を知らないところに熱心な信仰は生まれない。
人の霊験談を漏れ聞いて期待するのみです。
それは実のところ信仰と言うより期待でしかない。
身も蓋もない言い方ですが初めから篤い信仰と言うのはないものです。もしあるとすれば親や縁者、あるいは人生の先輩から敬神崇祖の教えの薫陶を受けた人でしょう。
ただし、そういう人にとっては霊験の有無などはどうでもよく、人のあり方として敬うべきものを敬うということだと思います。
その心は尊いものですが、救いをもとめて神仏に心を寄せる人には必ずしも響くものでもないでしょう。
ゆえに初めから信仰を篤くと言っても実は無理なことです。
信仰は形の上で熱心でも実は内面で信念にならねばなりません。
初めから信仰篤くと言って山ほど拝んだところで、それは願望で頭がパンパンになった結局焦りや期待の行動でしかないのです。
願望本位でお金に任せておもいきり布施をしたところで篤い信仰とは限りません。
そういうものは早晩挫折します。
初心の人の信仰はそうではなく、ただただ本尊をイメージすることでいいのだと思う。
本尊の本誓を想い、姿を想う。
実は初心のようでも密教でしていることはそれです。密教の修法で願望を強く祈念するところなどは第一にしません。
それは啓白や発願文でふれるけど繰り返しやしない、
ただ本尊と心通わすことを先とします。要は手さぐりでも本尊と触れ合うことが信仰です。
願望を繰り返し強烈に念ずることは霊験にあんまり関係ない。(引き寄せとかは知らないけど)
そんなのは手に汗握り、歯を食いしばって、スポーツ観戦するようなもんです。
テレビ観戦者の応援程度でしかない。