ある阿闍梨さんのお言葉
「寺院にはしばしば迷惑な人間の障礙もあるが…それらを退けるために調伏祈祷などするより、まず。トラブルに至った我が身の不徳を考えるべきである。
そこはよく考えないといけないことだ。」
これは味わうべきことです。
密教行者や精舎は護法善神の加護や結界があってしかるべきでそれが失われるのは、自分のありように問題があるか、宿業の発動かのいずれかでありましょう。
私の師もそのようなときにも調伏などをせず、息災で祈ることを教えてもらいました。
宿業なれば滅罪の修法などを祈るのがいいでしょう。
調伏などしなくても正しく護法神や結界が働いていれば自然に良からぬものは追い払われますから。
調伏などは個々の敵を見ますが、息災の考えはそうでは無く境涯を一変させるので、あえて問題人物などにフォーカスする必要はないのです。
レベル的に上の考えです。この故に蘇悉地羯羅経には息災を上悉地として降伏(調伏)は下悉地としています。
降伏するにしても自分の悪業煩悩を降伏するのが密教の本義です。
この自分の煩悩を降伏するというのはなかなかに難しいことです。
煩悩に対する真摯な反省がなければ降伏はできません。
逆に申せばそれがあるならわざわざ祈らなくてもいいようなものです。