今日ご相談があった方が大聖歓喜天使咒法経はよんでいいのかどうか…という質問を受けました。
当院では礼拝作法に入っていますから読んででいただいていいのですが。霊場によりあげないところも多いと聞きます。
その理由は内容が通り一遍に読むなら浅薄な御利益の羅列であるからである故と思います。
たしかにただ単純にこれを読めば仏道にそぐわない一面もあります。
しかし、それはそれで誤解をしないようにする手だてはあると思います。
もともと密教のお経と言うものは阿闍梨の解説なしに読めないものです。
そこで少し私なりに偈文から解釈をしてまいります。
「我有微妙法 世間甚希有 衆生受持者 皆与願満足」
我に微妙の法あって世間にはなはだ稀有とする。
衆生これを受持するものは皆満足を得ん。
さあ、のっけからここが大事なことを見落としやすいところです。
我に微妙の法ありとは浴油などの祈祷を言うというのが普通の解釈ですが、これは間違いではないですが幼稚で浅略釈で浅い捉え方です。
この微妙の法とはつきるところ大乗の教法をいうのです。
こういうのを深秘釈といいます。ここがもう一つ奥の見方です。
「皆与えて満足せしむ」「といいえばさぞ欲願が皆叶うことを言うのであろうと思うでしょうが、欲願など皆叶ったところで知れた利益です。
死ねば金殿玉楼も巨万の富も愛妻愛子もすべて手放すのです。
生死を超えて我々に安心をもたらす宝物が仏法です。
「我行順世法 世示希有時 我能随其願 有求名遷官」
我は順世の法を行ないて世に稀有のことを示さん。
我よくその願に従いて名を求めることあれば官を遷さしめん。
「我使国王召 有求世異宝 使世積珍利 家宝足七珍」
我、国王の召を使わしめ 世に異なる宝を求めることあらば
世に珍利をつましめ家に七珍の足ることを得ん」
この二句は尊天の御利益で名誉・財物を得ると言うというのが浅略釈。
もちろんそういう常にも優れた御利益にあずかることもあるのが尊天の御利益の特徴ですが、世に異なる宝とは「菩提心」のことです。
金 銀 瑠璃 玻璃 しゃこ 真珠などは世の常なる宝で「世に異なる宝」ではないです。
したがって「珍利を積む」とは功徳を積むことにほかなりません。
珍利を積むにも二通りあります。一つは事業や商売などをしているなら尊天から頂いた財宝で善事・施しを行なう。
いま一つは以下の無財の七施のように財宝でない施しもあります。
一、眼施
慈しみの眼で見守る
二、和顔悦色施
柔和を失わぬ顔つきをもって対すること。
三、言辞施
誠実な慈しみのある言葉を語って対する人を安心せしめる。
四、身施
自分の体で人のために体を働かせて奉仕すること。
五、心施
心のこもった行為言動をすることですべてに通じる。
六、牀座施
座席などを譲ること
七、房舎施(ぼうしゃせ)
雨や風をしのぐ場を与えること。