大森先生の「善龍庵」はお施餓鬼の道場です。
多くの方が施餓鬼を通じて供養の功徳を感じていらっしゃいます。
勿論、施餓鬼は問題解決のためにするというものでは無く、一にも二にも「供養自体をしたい」という心のもとにすべきことです。
それでも私の門流で最高秘儀だった「精霊供養」は施餓鬼を母体としたものでした。
また、あるお寺で霊験に定評はあるが非常に高額で修されていたという秘法も結局は施餓鬼が柱でアレンジしたものです。
施餓鬼はそのようにきわめて功徳の高い法です。
ただ通常の施餓鬼はピンポイントでこれこれこうして欲しいという願望の手段ですることではありません。それは施餓鬼の本質の施すこととはまったく逆の考えです。
密教では広い意味で増益法に属しますが、諸天の法のようにストレートに商売繁盛や財宝を目的にするというものではなく、緩やかに福徳を増していく法です。
そして施餓鬼は諸天の法より優れた点があります。それは気の毒な餓鬼の救済による功徳がつめるということです。
諸天の法も天尊を供養することにより徳は積めますが、天尊は誓願によって供養を受けてくださるので神様ですから供養が不足して困っているわけではありません。
ですから功徳を積むことで色々な良きものがもたらされることに間違いはない。
施餓鬼の功徳の大きい理由?
それはすべきことをしたからです。
つまり供養すべきものを供養したからでしょう。
極論すればしなくてはいけない供養をしたからこそ明白な結果が出ます。
私の伝承する精霊供養は七日間にわたる大変難しい法です。
ハッキリ言えば霊問題の解決法として示されたものですが、講員様限定で一般の方のためにはしていません。
施餓鬼法の一種ですから当然餓鬼があつまります。
風もないのに施餓鬼旗がゆらめいたりもします。
ですから本来は内陣のような結界された場所ですべきことではありません。
また誰彼なくそんなことをしていてはほかの御祈祷ができなくなります。
以前どうしてもやってもいらいたいという方が新宗教の方でしたがわざわざ辞めててもらうために講員になったケースがありました。
どうして自分の宗教で解決しないのか不思議ですね。
私はこういう場合私はそちらはやめてこっちにこいなどとは決していいません。
基本的に新宗教からこられた方は因縁がちがいます。
経験的に言って以前の信仰をすぐ持ち出すし、メンドウくさい人が多いのでやめてまで来て欲しい気持ちなんかさらさらないのです。
だからあえてこちらには来ないよう、来ないようにしてます。(笑)
そういう理由で私はこの「精霊供養」を滅多にしません。普通のお施餓鬼は八月にするのみです。
一般の皆さまには大森先生のお施餓鬼をお勧めします。