主人公ちひろは生まれつきひどい皮膚炎を起こしていた。
両親はなんとかしたいと、ふとしたことで知った「金星のエネルギー」を祈りこめたという水を使う。
ちひろは日を追って回復していった。
両親はこの水の効果を信じて新宗教の門をたたく。
この映画は新宗教に入信し、奇跡の水を信じて奇妙な行動を続けていく一家の物語。
原作はかなり新宗教に否定的な内容のようだが映画の方は新宗教に人が惹かれる理由と言うか・・・そこに働くシステムのようなものが感じられる。
まあ、私は新宗教だというだけで即否定はしないが、私自身は何の関心もない。
若いころさんざ見てきたこともある。そもそもああやって群れるのは性に合わない。
いつも不思議に思うのはなぜあんなに傲慢に自分が信じている感覚だけでそれを絶対の真理だとか言って人に強烈にその教えを勧めてくるのか?不思議でならん。
あそこまで恥知らずになれるのも大したものだ。
かくいう私自身は今自分の信仰している教えが絶対の真理とか思わないしどうだかも知らない、
正直に言えば「絶対の真理」などどうでもよいのだ。
ひどいいいようと思うだろうか?
なぜそういうか。
わたしにはたとえ目の前に絶対の真理などと称するものがあっても判断する能力がないからだ。でも。それは基本的に言えばどんなエライ人でも同じだ。
自分の脳みそを通じて理解できるものだけがわかるのだ。
純粋な真理とか絶対の真理など捉える能力が人の身にはない。
味付けしたものしかわからない。その味が宗教によって異なっているようなものだ。
就中、私のような頭の極悪い人間にとって絶対の真理などカタツムリが天文学の講義を聴くのに等しい。
ではなぜ私は現在の信仰をやっているのか。性に合っているからだ。
それ以外に理由などない。
だから本当は一神教の言うような神様がいようが、あるいは神仏のようなものが幻想の所産だろうがどうでもいい。
私自身にとってはそれがどうだろうが信仰のヴァリューはかわらないのだ。
この映画には布教はないが自分のありかたを守ろうとする一種のマイノリティとしての信者が見えてくる。
これからはイスラムの人も来るようになるだろうし、彼らの習慣もまた日本では奇天烈に思う人もいるだろう。
しかしそこは調整されていくべき課題だ。
思想信条の自由という点で言えば、新宗教の肩を持つ気は全くないが千古の教えだから尊重し、新しい宗教だから軽視するというのも理屈に合わぬように思うのだが・・・。