金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大聖歓喜天使咒法経偈 私註 その4

遊行得自在 隠顕能随念 出入無所礙 無能測量者
遊行するに自在を得、よく念に随いて隠れ顕れ 出入りに障礙なし よく識量すること能わざるもの也

 

聖天さまの御利益はあるいは密かにあるいは露わに様々で行われますのでこれが御利益だとかそうでないとか我々の観念で測れません。

神仏の御利益とは総じてそういうものです。証明などできません。


我於三界中 神力得自在 降世希有事 我皆悉所為

我は三界の中において神力自在にして世に降らん。稀有のことは我が悉く所為なり。

 

諸天に勝りて世に不可思議なることをなすはこの天尊の特長です。

 


若説我所能 窮劫不能盡 

もし我が能う所を説かば劫をきわむるともよく尽くすことなし

 

劫をきわむるとは天地がつきるともの意味です。

実際様々な驚くようなことが起きるのも聖天様ならではでしょう。

 

持我陀羅尼 我皆現其前 夫妻及眷属 当随得衛護 

我が陀羅尼をたもつに皆その前に現れん 夫妻および眷属 まさに随いて衛護を得ん。

 

聖天さまの真言を唱えれば目には見えずともその必要に随いて男天・女天・眷属などが必ず加護をなすであろうという意味です。


我有遊行時 誦我即時至 過於険難處 大海及江河 深山險隘處 獅子象虎狠

毒蠢諸神難 持我皆安穏 若有侵嬈者 頭破作七分

我遊行の時にありて我を誦すれば即時に至る。険しき暗所、大海及び江河、深山の険しき狭きところ、獅子、象、トラ、オオカミの難、毒虫、諸神の難

我をたもつに皆安穏なり。もし侵しみだすものあれば頭を破りて七分となさん。

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この天尊は常に遊行されて我々を見守り給い、難所を過ぎ、猛獣の難に会ってもみな即座にご加護されるとのご誓願です。

深秘釈と言うまでもなく、これはなにも猛獣毒蛇のいる山間僻地に踏み入り波頭逆巻く大海原に漕ぎ出さなくても、不慣れな世界に飛び込み、知らない人とやっていくという意味では世の中はすべてこのようなものです。

こういった御誓願の特徴は尊天独特ですので、密教では仏教者なら神仏から初心の行者まで持つところの五大願のような「総願」に比べて「別願」と言います。

もし悪人あって危害を加えようとするならその者の頭を七つに割ってでもお救い下さると言われています。

実際眼のまえで頭が割れるようなことはないでしょうが、聖天様を正直に信じる者に害心を抱いて襲おうとするならそれは巧みな御計らいでその難を避けてくださいます。

すんでのところで騙されるのを見抜けたり、第三者に助けられたりも致します。

これなどは頭を破らなくても悪しき企みを七分に砕く御利益です。


寿命悉長遠 福禄自遷至

寿命はことごとく長遠にして、福禄おのずから遷り至らん。

 

寿命は長く、福禄は願わなくても至るであろう。

そのような御利益を頂くには高い御祈祷やお供えだけで頂けるものではありません。

真心で生きることです。高い奉納をするのも敷いては真心をあらわすためでお金の絶対的な額ので御利益があるものではないのです。

また、いかに聖天様に信仰熱心でお参りが厳格でも、おおらかさのない心の冷たい利己主義のものには御利益はないものです。

「歓喜」とは人と人の交流の間に生じるもの。そのような人もなげな心ではいかに上品御祈祷を頼み、美味を供え、勤行に励んでも、到底「歓喜天」と言われる天尊のみ心に叶いません。

 

そのようなことは二の次です。心を清浄に保ち、常に人や生き物ににこの世の同朋として慈愛の念を持つことこそ祈らずして福を得る道です。

 

この偈文のあと、聖天様は真言を10万遍、ないし20万遍と満ずること勧め咒を説いて虚空に上り給います。

天台密教の一伝ではしばしば聖天行者は加行華水供1000遍とも言いますが。これは小咒ですが一座行法では1000遍の真言を誦します。千遍修しますと千×千でこのお経の説に従い10万遍の真言を満ずるからです。

一座1万遍で100座というやり方もあります。

もっとも化他行(人のための御祈願)をしないなら1000遍で100座でもいいと聞きます。

これは行者のことですから一般のお方は華水供など知りませんので、オンオンキリギャクウンソワカの真言のみとりあえすお唱えしていくことを中心にして行けばいいでしょう。

断っておきますがこれは信仰の上で尊天に親しむためにすることです。

 

10万遍唱えないと祈願がかなわないとか言う意味ではないです。初心の時にいきなり祈願をかなえて頂くことも多いのが聖天様ですから、そういう意味や目的では関係ないことです。

逆に10万遍でも100万遍でも叶わないものは叶いません。

 

前にも言いましが密教のお経と言うのは普通在家の方は読みません。

ですから使咒法経は浴油のやり方も書いてありますがほとんどの経本ではそこは省いて載せています。

したがいまして読む習慣のないお寺での信仰では無理に読むこともいりません。

ただ内容的にはこういうことだと思いますので誤解しないで、各々の信仰するお寺でそこの習慣に従い聖天様の信仰に励んで頂きたく思います。

 

 

合掌   おしまい