私の師匠の話です。
ある人が聖天信仰止めて別な信仰に行った人が戻ってきた。もう一度信仰したいという。
そういう時には別に形の上ではOKでも、縁は別だよ・・・うまくいかないかもね。と言われた。
縁は一度きりのこともある。
特に聖天様はね。
だから元の信仰に戻ってきても同じようにご加護があるとは限らないともいわれた。
実際、見てると聖天さまを置いて去って行った方は戻ってきても、またじきに去っていった方の記憶がほとんどです。
聖天さまは大日如来最後方便の身。
この尊に出会ったらぎりぎりで仏さまに拾ってもらえたんだと思えよと教えられた。
そこをまた出て行ってどうなるんだろう。
お寺の山門は開いていても聖天様の門はもう閉じられているかもね。
よく言うでしょ。チャンスの神様は前しか髪の毛がないから後ろから髪の毛はつかめない。
だから拙寺の場合は講をやめたらもうそれでおしまいにしていただく。
戻ってきても同じことだからです。
だから戻らないでくださいといいたい。一期一会。ながくてもそういうこと。
これはね、出て行ったんだから許さない!とかいう感情的なことでは全然ない。
逆に言えば私自身はそれほど人様に思い入れはないんです。
期待や思いを一切残さないよう鍛えられていますから。
と言うよりホントは面倒嫌いだしそんな根気もないので。(笑)
ハッキリ言えば情は薄い人間です。
なぜかといえば飽くまで皆さまは本尊の信者様でわたしの信者様ではありません。
そう思ってますから本尊抜きで私にいい顔しても何も意味ない。
やめた時点でご縁はもう終わっているんですね。
戻りたいと言う人もあるけど情に流されることなく、そこはお断りです。
許す許さないではなく…ワンチャンスだったと思うからです。
縁が切れている以上私のできることなんかなにもない。
主人(本尊)がお断りなのに番頭(私)が客あつかいすることはできない。
同じ聖天様でも御利益欲しさに他所の聖天様に行こうとした時にもう聖天様の縁自体が切れてしまうことだってある。
勿論、講費納入してお参りすれば形は元通りかもしれない。
でもそれは神仏を軽く見ることだと思う。
そういう人は十中八九戻っても同じことだと思う。
もう縁は終わっている。だからこそ縁は大事だね。
最初にした聖天様の信仰を止めないで下さいね。どうか続けてくださいね。わざわざそこやめてうちなんか来ないでいいからね。と言うものそういうことです。
世話になった神仏を簡単に捨てて来るような人は講員にしたくない。
祈願叶えたさに方々の聖天様に行きまくってる人などもう問題外です。
逆に拙寺から他所に行くなら決してとめません。
どうぞもう振り返らずに心おきなく他所に行ってもらいたい。
こころのうちであなたのために新しきよいご縁を祈っていますよ。