まことの懺悔は必ず学びによるものが多い。
ただただオウムのように懺悔文を口にしたからと言って懺悔にはならぬ。
そして、まことに学ぶということはそれを知って初めて自己の愚かさ、稚拙さを知ることだと思います。
「アアなんて下らなくて馬鹿だったんだろう!」
「なんと浅はかな自分であったことか・・・」と思うことが大きいほど学びは大きい。
裏を返せばまこと愚かな自分を発見することは大きな喜びでもある。
愚かさが見えれば見えるほど
慙愧の念が深ければ深いほど
その学びは大きいのではないだろうか・・・・
ただ「ああ、そうなんだ」では学びにならない。
いくつになっても日々愚かな自分を見出しては、恥ずかしさと慙愧に責めさいなまれるべく精進したいものです。
愚かなことでは自信タップリの私が申しあげます。