わたしは古仏を買うことが多いが、むかしのものはは出来がいいものがおおい。
理由は簡単です。オリジナルで作っているからです。
いまみたいな仏像の大量生産はない。
誤解のなきように入っておきますが単に見た目の美しいものなら現代の外国のものにも良いものは多い。
最近はコンピュータプログラミングで細部まで実によくできている。木の表面が彫ったのではなく、研磨したようになっているからわかる。
ただ同じものが沢山出回っているのでオリジナリティはない。
でも同じ理由で私は在家の信徒さんの場合にはそちらを勧めます。
なぜならオリジナリティがあるという子とは必ずその仏像は作った目的があるからです。
極端な場合は誰か亡くなくなったをしのぶために作ったものもある。
そんなのは在家さんが持って帰って拝めない。因縁を持ち帰るようなものです。。
だから我々僧侶は発遣してしまい再度開眼しなおします。
そうするなら在家でもOKか?
そうといいきれない。因縁はすべてなくなるわけじゃないから。
僧侶ならお寺において広い目的で衆生救済のために拝んでいれば本来の仏性とつながるので段々と浄化されてきますが在家さんは個人のお願いをかける目的なのでそぐなわないことがある。
却って悪いことにもなる。
仏像に祟りはないが開眼した人拝んだ人の念を忘れてはいけない。
大部前だが非常にできのいいお稲荷さんがあった。
尊像は日蓮宗の最上稲荷であった。白木であったがとてもきれいなお稲荷さんっだ。
弟子に頼まれて譲ったが
しばらくして弟子が体調がおかしくなった。
どうも霊関係のようなのでお加持したら口開きした。
「法華の稲荷を祀ってい折るのに題目があがらぬ!」というご不満。
これなどは開眼主のご不満。仏自体に宗派はない。
だから稲荷と言っているが稲荷ではない。
そもそも最上稲荷はもとは日蓮宗より古く自然智宗の修験僧 報恩大師の勧請です。
その後ながらく天台宗「備中高松稲荷」になって幕藩体制になり藩侯のご意志で日蓮宗になった。
この場合は尊像が比較的新しいものでしたが、講社の本尊か何かで特別に彫らせ。誰か法華のお坊様が開眼したのでしょう。そもそもこの稲荷を造像した目的が果たされない因縁の不満と言ってもよい。
主にご不満はそのお坊様ですが「では法華経の自我偈を上げてお供養しましょう」で納得してもらった。
弟子はプロの行者だからだからまだしもだがこんなのは在家に祀らせられない。
多分激しく警告してくるだろう。
時にわたしの師は仏像を選んだ。持って行ってもこれは駄目だ。
祀るなら新しく彫らせなさいと言われることも多々あった。
理由はあえて言わないが「これは開眼する気にならない」とのこと。
仏を迎えるのに安易であってはいけないと考えていました。
私も同じ考えです。仏像はその信仰の度合いによって求めるものです。
だから原則的に講員さん以外の方の開眼はしていません。
信仰の度合いがわかりませんから。
加えて仏壇の本尊などはあくまで菩提寺に頼むのが筋です。