私は林天朗居士から金剛経の提唱を受けた時、「仏法とは岸にわたる筏のようなものである」と言うくだりで、
たとえば掃除をするのには箒がいる。
でも掃除が終わって箒を捨ておいては今度はそれがゴミになるのだという話をうかがった。
金剛経では「仏法は筏だから彼の岸に渡ればいらないもの」という表現になっている。筏は片付けるべきなのだ。
これは仏法ばかりか、日常レベルでも何でも同じだと聞いた。
昨日はお祭りだがかたずけを見ているとまだまだだなと思う。
確かにお祭りの後、一階はきれいに整理されているが脚立は地蔵尊の回向壇におしつけたまま、木魚のバイに至っては祭壇の上に放置してある。
こんな風だから誰一人二階の献花の水がないのにも気が付くわけはない。
だれがやったとかやらなかったという問題ではない。だれもそういうのに気が付かないという意味ではみな同じレベルだ。
つまり片付けるのは一階だから二階はこの際どうでもよいという考えとみた。
仏様があるのにナントただのもの扱いだ。こういう認識か・・・
実は皆、独部法や十八道あたりはこなしているし、経済的にかなり深刻なことになっている人もいるのでなんとかしてあげたい。
特別に年末に弁才天の増益に関するある小法の伝授を考えていた。
これを伝授してくれた阿闍梨さんとも話をして未加行者で授けてもいいかというとこまできた。ある高名な大徳もそうしていたので別に問題ないのではないかという話で「じゃあいいかな」というとこまできていました。
でも「やめておけ。ほど遠い」と教えられたように思う。残念だね。
問題は整理整頓の不備をいいたいのではない。
なにより怖いのはこういう考えだと目的以外は目に入らないことになるのだ。
実際に二階にある地蔵尊は仏様なのにどうでもいいとしか思えない扱いになっている。
こうした考えの極端な話が不法投棄だ。自分のところさえ片付けば問題は頭から消える。
・・・・福島原発の放射能汚染水をおかみが海に捨てるくらいだから、まあ一般の考えも推して知るべしかもしれないが (笑)