人物を見定める基準。
まあ、生意気なものいいで至って恐縮ですが・・・僭越ながら何につけだれかを選ばせていただく場合・人選と言うことがあると思います。
例えば重要な役をお頼みするとか、拙寺なら入門とかいう場合何を大事にしているかというお話ですが。
企業の人選などは能力的に適しているか否かが大事でしょうね。
それもあるでしょうけど…ひとつの参考までに私の考えを申しあげます。
あくまで参考です。
私の場合はそこは二の次です。
企業ではないので。
能力的に優れているか否か。今現在は普通であればよい。
普通以下や頭が悪いのは困るけど。
資格保有者や教育があっても頭の悪い人はいます。
資格とか学歴なんかがなくてももちろん願わくは利発な方が良い。そこはそう。
そこを見るとき私は名門大学や大学院でてようが中卒だろうが全く同じ目で見ます。
ではどこを見るのか?
この場合の基準は既成概念だけでできている頭は不可とみなします。
学歴も立派で知識ももっているけど考えに発展性がまったくない。これ駄目です。
奇抜な発想こそがここで言う利発という意味。学歴や知識の量ではなく。
そして、それ以上に大事なのは先ず第一は義があるか否か
いかに能力が高くても、此れがない人はどんな関係でも距離を置く。
友人でも同じです。
第二に正直な人か否か。
ウソを言う人は信用できませんからね。嘘を言えばもう何一つ信用できなくなる。
それは駄目です。
人を疑りながら付き合うことは面倒で無意味だ。これも大きい。
第三には謙虚さがある人か否か。謙虚のない人。恐れと言うことを知らぬ人はいずれ慢心から必ず大きな災いを引き出します。
できる人と言うのは概ねこれがあるので、知識や能力を見せつける自信たっぷりの人はお断りです。
要は人物本位でそれ以外は付加物。
だから「謙虚ではないけど、そのぶん私はできる人です!」みたいな人には用はない。
ましてや義なく、不正直で謙虚ではない人は能力が高ければ高いほどそばに置きたくないですね。
毒蛇を懐に入れるようなものだから。
とはいえ通常のことが理解ができてないとか、常識がないとかいう人はこれも問題外です。
勘違いしてお寺は困った人の面倒を見るところだから面倒見てくれると思ってか、食い詰めたり、社会でうまくいかなかったりを「弟子入りしたい」とか、「是非おいてください」とか言う人も稀にいますが…ただでさえ私一人で忙しいのにそんな人の面倒まで見る余裕はないですね。お断りです。
うちは余裕のある裕福なお寺でも福祉施設でない。個人商店みたいなもんですから。