「十一面観音随願即得陀羅尼経」にある一節。
このお経は和製ですが十一面観音専用の読誦用経典としては唯一無二です。
拙寺ではときとしてこのお経の略偈(エッセンス)としてこの一節を唱えて頂いています。
でもとてもマジカルに聞こえますよね。この言葉。
実際それもあって好きな一節。
十一面観音を信仰するものは「現身に飛行自在を獲得し、神通変化は我に異なることなし」といいます。
でも実際そんなことあるの?
勿論、鳥のように空を飛ぶとか、神通力をふるい何かに化けるなどという事は実際にはないでしょう。
常識で考えてあるわけない。
だからこれはそういう解釈ではないと思います。
私が思うには・・・飛行自在とは今のシーンを飛び越えてワープみたいに苦境から脱することでしょう。
私の師匠はよく「階段を昇るんじゃないよ。ジャンプするんだよ。飛ぶのだ。」と修行について語りました。
ほかのこともいっしょ。商売もそう。企業ワークもそう。
恋愛もそう。人間関係もそう。
ただし境涯が進まないと人は苦境は脱しません。
最初は護法善神が助けてくれますが・・・どこまでも甘えさせてはくれません。
ジャンプは自分がしないとね。観音様はその方向は示してくれる。
でもそれには観音様の声を聞こうとしないとダメです。そこに信仰の価値がある。
観音様の声は欲でパンパンになった頭には聞こえない。
だから方向を見るならそこをいっぺん離れないといけませんね。
神通変化も同じ、あらゆる状況に適応し見事に変化する。
これを言うのだと思っています。
十一面様はお顔が11。
TPOに合わせていかようにもなる。
そういうことでしょうね。
孫悟空みたいに七十二通にいろんなものに化けるわけじゃない。
こういうのって一番肝心なのは何?
柔軟性と自由な発想だと思う。
じゃあ十一面観音拝めば堅い頭も柔らかくなる?
そうじゃない。
そういう受け身オンリーの考えは進歩のない一番駄目な考え。
観音様はそういう我々の進歩にならないことはしません。
まず頭を柔らかくしないとそういう智慧は盛れない。
観音様の御利益いただいてもわからないんです。
柔軟性と自由な発想で見れば身の回りに御利益はごろごろしてるのかもしれませんよ。
絶えず観音様の御声は空中に流れている。
観世音とは世間の音(こえ)を感じる菩薩ですが私たちも音を感じてほしい菩薩でもある。
だから周波数を合わせるのは私たちのほうでする仕事です。