ある講員さんに金剛般若経をあげた。
後日「読んでみました?」と聞いたら「エ~・・・読んだけどなんだかさっぱりわからないです。」という。
至って正しい答えだ。字面の理屈でわかるわけがない。
第一わかったか?などとは聞いていない。
解ります!などと言えば逆にブっとばしもんだ。
昔の禅宗で言うなら二十棒もくらわさないといけない。
そもそもそういう風に「勉強する」為にさしあげたのではない。繰り返し読誦して「修行する」ためにあげたのだ。
なんの本だか忘れたが金剛般若経の代表的フレイズ「○○は○○に非ず、これを〇〇という。」と言うのを論理的に解釈して云々という本をすすめられて読んだ記憶があるが、…一読してダメだと思った。
これは面白い試みではあるがただの遊びだ。
そもそも般若経は理屈で空を導きだしているのではないからだ。
譬え論理学で説明できたとしてもそれは動物の標本、死骸をあれこれ研究してわかったように思うだけだ。
まあ、骨格とか皮膚とか内臓とかでわかる部分もあるだろうけど・・・それは生き物の本当の姿ではない。それはあくまで抜け殻だ。
西洋哲学との相関性は面白い問題かもしれないとは思う。それを研究することは無意味とは言わないが、どこまでも仏教とは違う世界だ。
仏教者がそんなものを見て何かがわかったと思えば大間違いだ。
そういう思考優位から出ることこそ般若経の最初の一歩だからだ
19世紀にドイツ観念論を学ぶ人たちが仏教研究の先駆けとなったのもそういう興味だろうが、私は仏教はそういう哲学の類ではないと思っている。
学究型で頭のいい人たちはえてしてそういう方向に流れるが、私はバカで幸いである。
「バカはバカに非ず これをバカと言う」(笑)
したがって「○○は○○に非ず、これを〇〇という。」と言う言葉自体を1000遍いじくっても何も出てきはしないと私は思っている。
それは戯論というものだ。
般若経を繰り返し読み止観を行なうことで薫習により内在の法性とそれが出会うのである。
それ以外の到達手段はない。
例えば般若理趣分を読誦すると様々な霊験がいただける。
でもそれは頭でそれを理解しえず、文章の意味すらロクにわからなくても起きる現象だ。頭が理解するのではない。
頭の方は追々でいい。
妙法蓮華経方便品の言う「仏と仏のみいまし諸法の実相を究尽したまえり」とはそういうことだろう。