なにかの技において共通するのはなにかといえば、肩の力を抜くこと。
力を抜くのが下手な私は武術もなかなか上達しない。
だが諸芸悉く「頑張る」と肩に力がはってしまう。滞ってしまう。
力がうまく伝わらず無駄になる。
「頑張る」の意気込みだけでいいのだ。
何とか祈祷の達人になろうといろいろ工夫を凝らして頑張ってきました。
最初は生来の超能力のある人や霊能のある人が有利なのかとも思った。
でも結局その人たちが頼るのは自己の力であり、神仏への祈りは希薄なのだとわかった。
では念力か?念を凝らせばよいのか。
念力を凝らせば凝らすほど神仏とは離れてしまう。我の力だから。
それでは仏道にならないでしょう。
仏道である以上方法論があって伝えられることが大事だ。
そうでなければ弟子になる意味もない。師である理由もない。
それで色々工夫した挙句・・・・
気づいたのはこれは「伝えることなのだ」ということ。
自分が何かできるわけではない。
するのは仏だ。
つまり信徒さんと本尊のジョイントが私だと。
真剣に願うのも私の役割ではない。
祈願の当事者でない私が当事者より真剣になれるわけがない。
みんなの真剣な祈りをもっていけばいいんだ。
仏の世界へ。
そこに歯を食いしばって何かする必要はゼロだ。
そのためのツールが三密・真言・印・観想だ。
ちゃんと届けば答えは出る。
良くも悪くも。
それこそが密教のご祈祷のありかたなのだと。
だから今は肩の力が抜けてます。
三井寺の護摩には次のような一節があります。調べていませんがおそらく儀軌の一節でしょう。
「 十方の諸仏に啓白す 我ら下輩、愚鈍の凡夫にしてこの印を掌ると言えども、蚊やアリが須弥山を推すがごとし。おそらくは力無けん
ただ願わくは諸仏 我らを加護し無上正覚をなすを得せしめたまえ。」
所詮、諸仏の目には自力ですることは蚊やアリと大差ないのです。