身分制度の社会。日本でも江戸時代はそう。
韓国でも姓をみれば本々の出自がはっきり分かるようになっているらしい。
昔はリャンバンとペクチョンの支配層と被支配層にわかれていた。
苗字が悪いと結婚できないとかあると聞いた。
ただ身分制度の安定社会と言うのもある。
そういうもんだ という社会。
私たちの社会が正しいという頭ごなしの押し付けはおかしいと思う。
民族自結
どうするかはその国の人たちが時間をかけても決めていくことだ。
インドでも肯定する人は「カーストは分りやすくていい。前世の業によって生まれてくる家が違う。」と考えるらしい。
我々から見れば奇異だが下位のカーストの人でもそう考える人はいる。そういう納得の仕方なんだろう。
かのガンジーもインド社会にカースト制度は必要と考えていたという。
我らがゴウタマ・シッダールタ(おしゃか様)も人の存否は身分によるものではないと考えたがカーストそのものを破壊しろなどという政治的なことは言われていない。
シッダールタは王宮を捨てた方ですからもともと政治などにまったく関与しないお方です。
身分制度が定着した社会には前提がある。
身分が上の方は尊ぶもの。でもその分責任も重いという社会だ。
そういうバランスのとりかたをしている。
インドでもマハラジャは下位の民にプージャ(施し)をしないといけないという大前提がある。
日本でも赤穂浪士で足軽だった寺坂信行は討ち入りは参加したが切腹からははずされた。
正規の武士ではないからだ。「腹をきる」というのは武士の責任の取り方だ。
庶民は討ち入りしても腹を切る必要はない。
だが人間は等しく同じという思想が広がって今インドは大いに揺れている。
この流れが後退することはないだろう。
現代の感覚ではどうかと思う話だが
日本軍が戦時下で統治していた南のある島。
さんざん欧米に痛めつけてこられた島民は駐留する日本軍に親しみを持っていたらしい。
敵の敵は味方ということだろう。
いよいよ配線濃色な太平洋戦争末期にこの島ももはやこれまでと言うとき。島民たちはともに戦うと言い出したが指揮官は「断じてならん!帝国海軍が貴様ら土人と等といっしょに戦えるか!」といって戦闘から外したという。
島を撤退する日本軍を島民は総出で見送ったという。
身分差別が島を戦場にせず島民の命を救ったと言えなくもない。
わたしは身分社会がいいなどとは絶対に思わないが、イギリスのように爵位のある人がいても法律の適用さえ平等ならそれを「いやだ!あってはならない不平等だ。」とは全然思わないな。それも文化だ。
たとえば「人間国宝」などと言う訳の分からない言葉より一代爵位でいいと思う。
そうなっても「それも面白くていい。」位にしか思わない。
逆にだれも困ったり、問題に思っていないのに重箱の隅までつついてえぐりだし、平等だの差別だのと言う人は生理的に大嫌いだ。
誰かを差別し軽蔑するための身分は断固反対だが尊敬するための身分というものはあってもいいと思う。
現に皇室はそうでしょう。
そういう人間だから左寄りの人間には絶対なれない。