舎利と如意宝珠の信仰は相通じるものです。
舎利は言うまでもなくお釈迦様のお骨ですが日本で拝まれているのはほとんど瑪瑙などの石です。
これはお釈迦様のお骨の代用です。
それでもいいことになっております。
最初は本物の舎利のみを行ったのでしょうがインドの八大仏塔に分骨されてそのうえ方々でまつる分まではないでしょう。
ましてや極東の日本ではまずない。
タイなどから将来したものもありますがこれが本物かどうかなどはどうでもいいのです。
とにかく釈尊のお骨を祀るのはそれが、釈尊のまさしく「骨の部分」(仏教のエッセンス)と言う意味だからです。
ですから初期の仏教ではこのお舎利が本尊だったわけですね。
そういう信仰は勿論釈迦の在世にはないわけです。
信ずべきは自らとダールマでした。「自燈明・法燈明」です。
釈尊が亡くなってのちにその遺徳を心んで真骨を祀りました。
この信仰は大乗仏教にまでもたらされます。
「広供養舎利 咸皆懐恋慕」と法華経にもありますね。
これが密教的なものが入ってくると如意宝珠と言うものがお舎利と同体のものとして珍重されます、
如意宝珠は想像上の宝物です。
お地蔵さまも如意輪観音さまも如意宝珠を持っています。
無尽のよきものを生む。
故に荼枳尼天や弁才天のような福徳の天部の三昧耶形にもなりました。
でもこれはすなわち釈尊の教えのことなんですね。
金光明最勝王経ではキョウジンニョ婆羅門が舎利を欲しがって、リッチャビ族の子供にからかわれる場面があります。「ものとしての舎利」などないのだと。
舎利でも如意宝珠でも固定したものと考えると仏教の教えから離れてしまいます。
舎利信仰は呪物崇拝ではありません。
ただし、舎利をそういうことを何も知らない人でも有り難く拝んでいただくのはつまるところ仏縁づくりなのだと思うのです。