呪術にはいろいろな道具立てが要ります。
方位や時間やそのほかのアイテム色々・・・。
例えば狐落としに江戸時代はオオカミの頭蓋骨なんか使う。
狐はオオカミ苦手だからね。
そういう風に思うから狐憑きでも退散する。
つまるところ「狐はオオカミ苦手だよね.そんなの常識」の時代に生まれた呪術。
密教の施餓鬼だってそう。
ロードオブザリングのスメアゴルみたいな餓鬼がきれいに人間に戻って、今まで炎となって消えていた食べ物をおなか一杯食べて仏法を聞いて得脱する。
なぜそんなことが起きるの?
大森先生の施餓鬼だってそうやって餓鬼は成仏するから変化が起きる
施餓鬼はイメージに載せてそこに餓鬼を引き込んでしまう。
でも自分が思うだけじゃなくね。現実に変化していく。
さっきのオオカミの頭蓋骨も同じ。骨が効くんじゃない。ホントは意識が動くんだ。
勿論密教の場合は欠かせられない重要なもの、それはひとつには真言の力です。
でもそれ以外の要素は我々の意識なんですね。
真言自体は誰が唱えて功徳は変わらない。
お経もそう。
あなたが唱えても私が唱えても高僧が唱えても同じ。
じゃあなぜ人によって祈願が効いたり効かなかったりするのか?
ただ意識が違うんですね。
密教修行は意識改革です。
大事なのはそれだけと言っていい。
「じゃあ簡単だ!私だってすぐできる」と思いますか?
無理なんです。
意識が変わるに色々なものごと知らないと無理ですから。
意識はそれだけでは変われないんだね。経験が必要だ。アイテムだって最初は必要。
でないと幼児の「何があっても大丈夫だもん」と言うツヨガリと変わらない。
ただのつもりは現実の前には役に立たない。そう簡単なものでもない。
泳げない人が浮き輪なしで泳げるようになるようなもんかな。
浮き輪と言うアイテムが大事で最後まで必要。
それが普通のお御膳立てがいろいろあるモノイリ呪術の世界ですね。
ただメカニズムから言うなら密教は仮に呪術として考えてみたら一番要らないものはみんな省いた呪術ですね。
浮き輪はしまいにはとってしまう。
意識が動けばそれだけで世界が変わる。そこをはじめから目指す。
そういうことです。