祈祷行者としてそれなりになるには、隠し味的に絶対欠くべからざる必要なものがあると私は思っています。
それを「魔」と呼ぶ。
清々しく、美しく、慈愛に満ち満ちたもの。それが基本であることは間違いないでしょう。
だがそのアンチテーゼとして「魔」は必要だ。
甘いスイカを甘くする塩のように。
たとえば密教の尊像には「魔」が満ちている。
髑髏の瓔珞、ヘビを手足に巻き、鬼神を従え、業火を身にまとう。
げに恐ろしき仏たち。
※深沙大将像
でもそれは必要なのだと私は思う。
取り入れ方を間違えれば容易に毒になるもの。
そんなものなぜいるんだ?
魔に向かうためにはこれが必要。
魔は打ちのめしたり、追い払うだけではダメだ。
魔はまた救済されるべき衆生なのだ。
法華経には「仏と仏のみ究尽したまえり」という。
彼らは光には寄り付けない。
ならば「魔と魔のみ究尽する世界」もある。
お互いが魔があるからこそわかる。
悪魔になる、鬼になるからこそわかるんだ。
そういうこともある。
これをして天台には故に「仏にも悪の性あり」という。
大菩薩も一抹の煩悩を断ぜずして苦海に歩みを運ぶ。
それを「方便」と呼ぶ。