金剛般若経では「過去心不可得 未来心不可得 現在心不可得」といいます。
過去は過ぎ去り、未来は未だ来ない。
現在と言う一瞬ととらえることもできない。
でも我々は心を認識している。
それが常に未来に遊離し、過去を回想しているからです。
多くの苦しみは過去、未来に飛んでしまっている心から生まれる。
ああ、あのときあんなことしたからこうなった・・・この先の人生どうなるかわかんない・・・常に心は現時にはない。
だから現在の苦しみもいまのいま「さあ今苦しめ!」と言われても難しい。
苦しみは漠然とした連続で時間的な「点」ではないからです。
故にたとえ苦しくても刹那的に生滅をとらえることは難しいのです。
だから達磨禅師は「あなたが煩悩に苦しんでいるなら、その煩悩を今ここに出してみなさい。」と言われた。
心と言っても我々はそれを実は「漠然とした連続体」としてしか認識していません。
釈尊は最晩年、信徒であるチュンダの料理にあたって病の苦しみを涅槃に至るまで同じようにしのばれたと言います。
我々の現実の苦しみはいろいろあります。病苦は釈尊のようにはなかなかいかないですが、漠然とした心の苦しみは、今の一刹那に心を置くことで軽減できるかもしれません。
とはいえその一刹那は実は捉えられないというのが「金剛経」の本義です。
こうしたことは「ああ、わかった」と言うだけではダメでそのように見据える禅(瞑想)が必要です。自分の心にダウンロードするのです。
実は心の苦しみの多くは現実のところ、我々の脳が警告している必要連絡なのです。
アラームとして苦しまないといけませんということなんです。
だから苦しみの認識まで否定してはいけないのです。
それでは正気を失う現実逃避とかわりません。
ですから「金剛経」のこの考えは現実逃避ではないのです。苦しみの正体をジックリ見極めるぞと言うことなのです。
苦しみの認識自体は悪くない。苦しみは大事な友達です。
でも認識したらアラームの鳴りっぱなしは必要ないですね。