祈祷の達者であった私の師匠は祈祷における不動尊華水供や理趣分は護摩焚くのと同じく位の功徳があると言っていました。
で一時は伝授もよくしたようです、熱心な教区で呼ばれもしました。が晩年はほとんど、よほどの知り合いとかでないとプッツリやめたようです。
理由は「授けても思うように効験がないと不平を言う人がいる」かららしい。
法と言うのは器ができていないのに盛ることはできない。
効験にはそれが身に着く準備があってこそということだと思う。
これは武術もそうですね。
そしてほかの術や法の世界もすべて通じます。
行も浅いのにお金持ってきて「○○法」授けてくださいと言う方もいますがそういうものではない。
形は大事で崩すことは許されないが、かといってただ習えばできるというものではない。
私も長いと言うほかは何もない。その器も恥ずかしながら至って粗末なものです。
この話を思い起こすとくれぐれも心して師匠の法を辱めまいと恐懼する次第です。
それはたぶん師匠の薫陶を受けた門下共通の思いでもあると思います。