金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

冷厳な慈悲

昔、若いころ不思議だったのはひとかどの人物と言うのは皆、距離があると優しくいかにも温かで、近づけば近づくほど、冷たく厳しいものだということ。

当時の未熟な私は冷厳な慈悲と言うものを知らなかったのだ。

特に私の知る宗教者は一応にそうだった。

でもそれでいいのだ。

 

つまりは依存を許さないということだろう。

共依存でべたべたするのは宗教者の慈悲ではない。好悪による私情だ。

そこに流れない。

「君子の交わりは水の如し」と言うものだろう。

だからそばにいても無限の距離がある。

そうでなければ師とするに足りない。

大きな 慈悲と言うのをズブズブの愛情みたいに思っている人はまるきり勘違いだ。

 

私が得度すると決めた時は師匠から開口一番。

「在家でいるうちは信者としてやさしくもするが、これからはそうはいかないよ。」といわれた。

 

時々どこのお寺でも聞くが、優しい人だから、この先生のそばにいたい、よりそいたいということで慰めや癒しを求めて得度しようとする人は全く勘違いしている。

 

そういう人は必ず失望する。

 

そばによれば鬼のような厳しい顔の方が余計見えるのが修行の世界だ。

近づけば近づくほどお優しそうな観音様が恐ろし気なお不動様だったと知る。

でもこの2つは2つでひとつだ。そこが理解できないものは弟子というものになるには値しないと思う。

慈悲と忿怒は車の両輪の如しと言う言葉が荒神祭文にあるとおりだ。

忿怒なき慈悲は慈悲とはいえず、慈悲なき忿怒は忿怒とはいわない。

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ただ優しく接してもらいたいだけなら得度などしないで信者で距離をとっているのが一番だ。それはそれで悪くない。