なおかげさまでこの施餓鬼供養の功徳のお話も100話目を迎えた。最近は皆様から頂く功徳譚を中心にご紹介してきたが、今回は私がなぜ施餓鬼供養をするようになったかをお話ししたい。
私が施餓鬼供養の功徳を知ったのは、浅草寺の貫主であった清水谷恭順大僧正のお話をある本で拝見したのがはじめである。
その大まかな内容は下のリンクを参照してください。
https://oomorigijyou.hatenablog.com/entry/2019/08/21/202832
この話を読んだのは高校生の時なので、当然施餓鬼供養ができるわけでもなく、たまたまよくお参りに行ってた真言宗のお寺の住職に頼んで一座施餓鬼供養を拝んでもらった。
皆さんがお盆の時以外に施餓鬼供養して欲しくても一般のお寺ではほとんど拝んではくれないだろう。よっぽど理解のあるご住職でないと難しいと思う。そういう経験もあって、今私は施餓鬼供養を皆様から受け付けているのだ。
さて、それから何年か経って、ご縁を頂いて真言宗の僧侶になるべく四度加行❨しどけぎょう❩の修行に入った。ここで初めて施餓鬼供養の作法を大阿闍梨から一対一で伝授していただいた。
通常の修行道場では略施餓鬼と言って、簡略の作法で供養するが、この時伝授を受けた作法は丁寧な省略しないものであった。
この修行時代から今に至るまで何十年もこの作法で拝み続けている。
その理由は施餓鬼のお経の中に、作法を省略すると、供養を受けることのできる餓鬼と受けられない餓鬼にわかれてしまうからだと記されているからである。それでは虚しく法の功力を用いるだけであると。
密教の修法というのは、たとえどんなに秘法であったとしても、ちょっと拝むだけでは功徳は現れにくい。コツコツとおがみ続けて初めて功徳が授かるのである。
長い間積み重ねていくうちに法の功徳というのが自然と身についてくるものだ。
これを続けてこれたのが一番のご利益だと私は思っている。
続く
浅草寺三尊名号石碑