最近色々思わしくないので最高に大きいご祈祷にしてもらいたいという講員さん。
熱心で沢山のご祈祷頼んでいる部類の方です。
でもお話うかがっているがまあ、失礼ですが普通の悩みですね。
家のものが方位が悪いのに遊びにいきたがるとか。
いうことをきいてくれない。・・・・
従業員が最近失敗が多い・・・・
「そこは拝むのではなく、心のもんだいです。
拝んだってそういうのはなくなりません。
どんな祈祷をしてもそういう日常の悩みは少しも減らないです。」と申し上げた。
まさにそういう普通の悩み、生きる上の数々の悩み。
老いる悩み、それにより健康を損なう悩み、死ぬという悩み
これらは拝んでも根本的にはどうもならんのです。
そのほかにも愛する人と別れる、嫌な奴と出会う。
ほしいものが手に入らない。色々な不都合が常にある。
でもそこに道の入口もある。
そういうことに煩わされるのは悪いことじゃない。気付きの第一歩です。
だから私はそれを嗤うのではない。あと一歩で大きな気づきが得られる。
お釈迦様の時代も優れた呪術者はいたでしょうけど、でもお釈迦様の悩みを満足はさせられなかった。
現状の不満ではなく、常なる悩みの存在に気付いた。
この二つを彼は見分けた。
だから出家したわけですね。お釈迦様は。
昨日もお母様の介護疲れの方から助けてほしいとメールがあった。
「いっぱいいっぱいで辛い。どういうご祈祷をしてもらったらいいのかがわからない」と言われた。
まさにご祈祷することとは違うんでしょうね。
人が老いれば介護の問題は当然起きる。まさに生老病死の悩みです。
まずは周囲の家族に今のつらい気持ちを伝えることからしかない。
道を求める、それはそうした日常の悩みの中で逐一の問題から視点を変えて自分自身のあり方を見つめなおすことから始まります。