私の神道信仰の根幹は「神道集」にあります。
中世の習合思想をになって来た重要な資料です。
海底に沈む大日如来の印紋だの、ヘビの世界から帰って来た甲賀三郎だの。
インドから飛来した熊野権現。
ことわっておくがこれは信仰である。
信仰はその人の持つアーキタイプによってえらばれると思っている。
だからどれが本当とか、歴史的にとか、はこの際、問題ではない。
そもそも実際の神道のはじまりは沖ノ島の遺構に見られるような素朴なものだったと思います。供物をささげ火を焚いて神に訴える。
神が礼拝対象ではなかった仏教、儒教を除けばどの宗教も始まりはそんなものだろう。
神道集は荒唐無稽と言ってもよい神祇譚に満満ちている。
でも私はそこにもっとも日本人らしい宗教文化が花開いた中世日本人の心を読み解く。
だからやってきて本当の神道がどうのとかいわれても全然かみあわない。
「本当の神道は」とか仏教でも同じこと。
「本当の仏教は」とかは関心ない。
「本当の釈迦の教え」も興味ない。
本当を振りかざす人は何をもって本当と言うのか。
本当って何?それ、あんたの価値でいう「本当」ですか。それとも歴史学的事実を言うの?
私にとってそういう意味の本物の追及などはじめからないのだ。
本物でなくても大いに結構。
心に響くものだけが宗教的本物だ。
それは人によって違うと思っている。
そういう意味では神道は比較的に自由だと思う。