宗教者の役割は究極は安心を与えることでしょうね。
いわゆる安心では無く「安心立命」である。
いわゆる自分の存在に納得できること。自分と言う存在に納得できることだと思う。
「安心立命」するということは簡単に言えば今の自分に納得するということです。
駄目でも素晴らしくてもまずそれだ。
そこからあとはもっと納得できるように生きていけばいい。
そもそも存在と言っても固定的な存在など何にもないのだ。
この私と言うそばから私は微妙に絶えず変容している。
人間は安心立命するのに別に特別エライものになる必要もない。
罪障だのカルマだのがまったくなくならなくたっていい。
そんなものどうでもよい。
過去に失敗してようと成功してようとそれはあんまり関係ない。
難しいものにならなくてもいいと思う。
いくら修行したところで非の打ちどころのないものになろうとしても無駄だ
一生かけてもそんなものになれない。
たとえ千年、万年生きてもそんなものにはなれない。
もし仮に「私はそんなものになったのだ」と自らいう人がいたならその人は地獄の切符を手に入れたようなものだ。
別に誰と言うことなく、あなたも、わたしも、今ここにいていいのだ。
何故なら不確定な存在には常に可能性がある。
だから本当には評価できない。
評価しなくていい。猫も犬もトンボも鮒もそんなのしない。
故にそれがそのまま「安心立命」だ。